国語の教育はいかにあるべきか

最近、日本の子供たちの読解力が低下しているという。つまり、日本語の能力が低下しているということである。これを解消するために、学習指導要領が改定され、現代文が論理国語と文学国語に分けられる、というニュースがあった。

しかし、現代文をいくら改良しても無駄だろう。現在の学校教育に足りないのは、古典の授業である。言語にはそれぞれ歴史があり、その歴史を知らずに言葉を使うことはできない。日本語を使いこなすためには、まず日本の古典に通じる必要がある。それをおざなりにしたままで、現代文の授業を強化しても効果は薄いだろう。

とくに問題なのは漢文の教育である。中学や高校の授業では、まともに漢文に触れる機会がほとんどない。しかし江戸時代まで、日本人は漢文を使って文章を書いてきたのである。したがって、漢文を知ることなしに、日本語を知ることはできない。そもそも日本語の半分は漢字でできている。その漢字がどこから来たのかといえば、漢文に起源があるわけである。ゆえに、漢字の使い方を学ぶためには、漢文を学ぶ必要があり、それが日本語の能力を向上させることにつながるのである。

古典の授業に割く時間が足りないというのであれば、たとえば数学の授業時間を削り、古典の授業を行えばよい。数学は何の役にも立たないので、削ってもよい。これは誰もが気づいていることだと思うが、誰も言おうとしないので、私が言おう。数学教育は時間の無駄でしかない。あんなものはやめたほうがよい。

これは以前も指摘したことだが、数学教育は一種の権威主義であって、誰もが役に立たないことを知っているが、それをやめるべき理由がどうしても見つからない。なぜかというと、どうして数学の教育をしているのか、その理由を誰も知らないからである。なぜ数学を教えているのかが分からないので、それをやめるべき理由も分からない。これはまさに権威主義の特徴である。

この場合の権威はプラトンであり、彼が『国家』の中で、数学を学ぶことで子供の知性が育つ、と言っているのを真に受けて、数学教育を行っているにすぎない。これほど馬鹿馬鹿しいことはない。プラトンの言うことが正しいはずがなかろう。

数学は技術であって、学問ではない。たとえば、将来大工の仕事に就く人は、早いうちから大工の技術を学んでいたほうがよい。それと同様に、将来数学を使う仕事に就く人は、覚えのよい子供のころから数学に触れていたほうがよいが、それ以外の人間には数学を学ぶ必要はない。知らなくても何の問題もないからである。数学教育は、子供から貴重な時間を奪っているといえる。

教育改革をしたいのであれば、まず中身を見直さなければならない。それが本当に子どもに教える価値のあることなのかどうか、どうしてそれを学ばなければいけないのか、という質問に答えることができるかどうか、よく考えてみなければならない。その質問に自信を持って答えることができないのであれば、その教育は間違っている。

若者には孟子を読ませなければならない。読む価値のある古典を読ませなければならない。極論すれば、漢文は理解できなくてもよい。理解できないままに丸暗記していれば、いずれ意味が分かるようになる。

分かりやすい授業は、よい授業ではない。学問とは、分からないことを分かるようになることなのだから、すぐに分かるようなことを教えても意味がない。子供の理解力を少し超えたところにあるものを教えなければ、本当の教育ではない。そしてそれができるのは、自分が教える内容に絶対的な自信を持っている教師だけである。我々は教師のあり方を含めて、教育全体を見直すべきだろう。

また絶対に、教育の価値を子供に判断させてはならない。それはもはや教育ではない。


個人的には李白や蘇軾が好きなので、是非学校で教えてもらいたいものである。漢詩を知る人が増えれば、日本の文化も豊かなものになるだろう。また、現在の古文の授業では、色々な作品をつまみ食いするように読ませているが、できれば一つの作品を一年かけて読むような授業をやってほしい。その方がずっと面白くなると思う。

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