善と利益

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日本人が利に聡いと言うと、不審に思う人もいるかもしれない。日本人は人がいいので損ばかりしている、というイメージを持っている人もいるだろう。

しかし、善を為すほど利益になることはない。善を為すほど、人の立場は強まる。悪事を為して利益を上げようとする人間は、その言い訳をしなければならなくなる。それだけでも、彼の立場は弱まる。また、そういうことを続けていると信用を失うので、商売がしづらくなる。一方で、悪事を為さない人間は、誰かに言い訳をする必要はない。また、人から信用され、黙っていても商売の機会が回ってくる。だから、善行は利益になると言える。

これを不純と考える人もいるかもしれない。自分の利益のために善を行うのは本当の善ではない、という意見もあるだろう。しかし、目的はどうあれ善行は善行であって、そこに差別はない。善行の中に善い善行と悪い善行があるというのは、矛盾した考えである。

逆に、善行が自分の利益になると確信していない人には、大した善行はできない。そういう人は、自分の良心を慰めるために慈善事業を始めたり募金をしたりするが、それが自分の利益にならないと考えているから、できるだけ節約しようとする。つまり金をケチる。最小の支出で最大の慰めが得られるやり方が一番良い、と考える。だから、大した善行はできない。むしろ、それが自分の利益になると確信している人のほうが、ちゃんとした善行ができる。ゆえに、善行が利益になるという考えは、それ自体が善いものであると言える。

それは、善行を消費として捉えるか、それとも投資として捉えるか、という違いだとも言える。ここまでの議論が正しいならば、それはノーリスク・ハイリターンの投資である。

日本人はそれが分かっているので、悪事を嫌い、善を好む傾向がある。なので、短い期間で見ると損をしているようだが、長い目で見れば得をすることになる。そのため、利に聡いと言える。易経には「積善の家には余慶あり」とあるが、そのとおりである。

2

しかし、そのことを忘れてしまうと、日本人はただ利益のみを求めるようになる。もう使われなくなった言葉だが、いわゆるエコノミック・アニマルというのは、そういうことだろう。

善行と利益の結びつきを忘れると、自分の利益だけを求めるようになる。そして、ただ利益だけを貪るようになると、恐れが生まれてくる。よく善を為し、自分の心に疚しいところがなければ、何かを恐れる必要はない。しかし、善を怠ると弱みが生まれる。人から非難されないかどうか、自分の過ちを指摘されないかどうか、という不安が生まれ良心が傷つく。それが理由のない恐れを生み、そこから攻撃的な言葉や行動が生じる。

明治以来の日本においてよく見られるのは、朝鮮人への恐れである。関東大震災などの非常時に、そうした恐れは表面に出てくる。最近でも世情の不安から攻撃的な言辞がよく見られる。そういうことをする人々は、不良日本人と言うしかない。

善を怠るから疚しさが生まれる。心に疚しいところがあるから人を恐れる。人を恐れるから攻撃的になる。そして、それがまた良心を傷つける。悪循環である。

そもそもの初めに、善は利益を生む、という信念が欠けていることが問題である。しかし、これは簡単に解決できることではない。必要なのは教育であり、様々な方法でそうした信念を育むことである。心ない人はそれを洗脳だと言うだろう。現世利益という考えを非難する人もいる。しかし、そうした人々に従っていても、何の解決にもならない。

あらゆる人間は善を為すべきである。自分の利益とともに、他人の利益をも求めなければならない。善行は利益を生む。それは、自分にも他人にも等しく利益をもたらす。

これが我々の信仰である。我々はこの信仰を広め、守り抜かねばならない。

3

もしも、一度でも死んだことのある人がいて、その人が、自分は一度死んでみたが、死んだ後には何もなかった、と教えてくれたならば、死後には何もないことが分かる。しかし、そういう人がいないのに、どうして死後には何もないと分かるのか。

地獄はある。地獄を恐れることから、善行は生まれる。

南無地獄大菩薩。

<北京語と漢文 終>

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