北京語と漢文

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最近の研究によれば、中国人の話し言葉は、南北朝から隋・唐の時期にかけて、大きく変化したらしい。そのころに、北方の遊牧民が中華の平原地帯に大量に流入し、中国語の発音が全く変わってしまったらしいのである。

一方で、漢字そのものは変化していない。漢字の文章の使い方は、話し言葉の変化にほとんど影響されなかったと考えられる。そのことは、漢字という書き言葉が、話し言葉からは独立した構造を備えていたことを示している。書き言葉と話し言葉が元々別のものだったため、話し言葉が変化しても、書き言葉が同じように変化することはなかった。つまり、中国においては、話し言葉と書き言葉は別の言語だったのである。

そう考えると、北京語という言葉の異常性が際立つ。現在の中国人は北京語を使い、共産党によれば、その識字率は九割を超えていると言う。だが、中国の歴史を通じて、識字率は一パーセントにも満たなかったはずである。漢字はエリートのものであり、漢字を使える人間は、庶民とは別の生き物のように扱われてきた。

そもそも、漢字の発祥は甲骨文字だと言われている。にょろにょろした文様のようなものが、段々と現在の漢字の姿に変化してゆく図を、教科書などで見た覚えのある方も多いだろう。そのような漢字の変化が、自然に起きたはずはない。

いま我々が使っている漢字は、形が定まっている。亀という漢字には、亀という形しかない。だが、漢字が自然発生的に生じたのだとすれば、はじめは様々な形があったはずである。地域によって人によって、使う漢字には多様性があったと思われる。それが一つの形に定められたということは、自然に起きることではない。誰かが、それを一つに決めたのである。

それが始皇帝だと言われている。いわゆる焚書坑儒は、異字体で書かれた書物を全て焼くことで、漢字の字体を統一する意味があったのだと、現在では考えられている。漢字は中国そのものである。ゆえに、漢字を作った始皇帝は、中国を作った人物だと言われるわけである。

しかしその時にはまだ、話し言葉は統一されていなかった。中国人は、地域ごとに様々な言葉を話していたのである。ゆえに、もしも、北京語を話す人間を中国人と呼ぶのであれば、その頃には中国人はいなかったことになる。同一の言語を話す集団を国民と呼ぶのであれば、中国人という国民は、いまだかつて存在したことがなかった。それは、二十世紀の北京語の創造とともに、新しく生み出された民族である。

また、話し言葉がバラバラであったのに、書き言葉が一種類しかなかったということは、書き言葉はやはり、どの言語とも対応しないものであったことになる。だからこそ、それを学ぶのは非常に大変なことであった。どんな話し言葉とも対応しない書き言葉を学ぶということは、単に外国語を学ぶよりも困難だったろう。現代で言えば、プログラミング言語の習得に近いかもしれない。中国人の識字率が低かったことには、そのような理由があったと考えられる。

北京語の出現によって、その状況ががらりと変わってしまったのだとすれば、それは、有史以来の革命的な出来事である。北京語が言文一致を実現し、それによって漢字を学びやすいものにし、さらに、話し言葉の統一を成し遂げたのだとすれば、それは始皇帝以来の偉業だと言える。中国共産党は、中国に真の革命を起こしたのかもしれない。

もちろん私は、共産党の発表をそのまま信じているわけではない。識字率の発表は、眉唾ではないかとも思う。また、北京語が本当に言文一致を実現しているかどうかも知らない。そもそも私は、北京語が分からないのである。

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現在でも、中国人の使う言葉は地域によって違う。それを方言と呼ぶのは、一種の作為である。しかし清朝の役人が、英語やフランス語ですら方言と呼んでいたことからすると、方言という熟語は、話し言葉という程度の意味だったのかもしれない。漢字とは、話し言葉の区別を超越した普遍的な言語である、という感覚が、現代人に欠如していることが本当の問題なのだろう。

歴史上、漢字を使える中国人はほとんどいなかった。であるならば、漢字や漢文を学ぶことが、中国人の特権だと考えるべき理由もない。漢文は中国語ではない。なぜなら、中国人には漢文が読めないからである。だから、日本人が漢文を学んでもおかしくない。むしろ日本人ならば、漢文くらい読めなければいけない。

最近の日本語が、論理的ではないと言われることが多いのは、日本人が漢文の勉強を怠ってきたからであろう。本来、漢文の素養なしに、日本語を使いこなすことはできない。とくに日本語の論理的な表現は、漢文の表現に負うところが大きい。そのため、漢文の教育をもっとしっかりやったほうが良いと思われる。

日本の教育には言いたいことが色々あるのだが、漢文教育の必要性は強調しておきたい。極端な意見だと思われるかもしれないが、私は、数学教育は必要ないと考える。数学教育は何の役にも立たない。ただの権威主義である。

いまの日本で、なぜ子供に数学を教えるのかといえば、それは、ヨーロッパの真似をしているからである。では、なぜヨーロッパで子供に数学を教えるのかといえば、プラトンがそう言っているからである。プラトンは『国家』という書物の中で、子供の教育には数学が一番良いと言っている。ヨーロッパ人は、それを真に受けているだけである。それは権威主義以外の何物でもない。

だが、プラトンは間違ったことしか言わない人である。プラトンが間違っていることの証明は、私が別の論文(「空の論証」)で与えている。だから、数学教育を行うべき理由はない。代わりに漢文を教えたほうが良い。それが私の意見である。

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日本の教育の一番の問題点は、歴史教育にある。東京裁判の判決を歴史的な事実として受け取り、それを子供に教えるということは、日本人の知性に測り知れない悪影響を与えている。

東京裁判において原告側が主張した、日本の政治家や軍の高官たちによる共同謀議というシナリオは、荒唐無稽であり、ただの妄想に過ぎない。むしろ共同謀議の疑いは、アメリカ政府の高官たちに向けられるべきである。また、原告に有利な証言は信憑性を確認せずに採用されたのに対して、被告側に有利な証拠はほとんど却下されたということも、裁判の正当性に疑問を抱かせるのに十分である。裁判の内容に全く注意を向けずに、その結果だけを無批判に受け入れるということは、そのこと自体、人間の理性に対する冒涜である。

アメリカ人の下らない妄想を本当の歴史だと信じ込んでいるために、日本人の知性は、彼らと同じ程度にまで退化してしまった。これこそが、日本にとって最大の不幸である。

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