欲望について

私はいま38歳で、童貞である。べつにそれでよいと思っていたが、最近妙にセックスがしたくなってきた。

いま、本を2冊書いている。本と呼べるほどの分量になるかはわからないが、鋭意執筆中である。この本を売って、お金を稼いで、可愛い彼女を見つけたいと思っている。それが私の目標である。

どうしてこんなことを書いているのか、自分でもよく分からない。だが、書かなければいけないと思った。

最近、YouTubeなどで「男磨き」系の動画をよく見ている。どうすれば女性にもてるか、を解説する動画である。そこで、ポルノ中毒という概念があることを知った。インターネット上にあふれているポルノに頻繁に触れることで、依存症になってしまうことがあるという。動画では、ポルノ中毒の害が強調され、注意を促す内容が多い。

私も若いころは毎日のように自慰に耽っていたものだが、いま思えば、それは安全弁のようなものだった。

女の子と付き合うのは金がかかる。洋服を揃えるにも、デートをするにも必要なものは金だ。だから、実際に女性と付き合おうと思ったら、バイトをするなり就職するなりして、お金を稼がなければならない。しかし、私は学問をしなければならなかった。人として生まれたからには、人の役に立つことをしなければならない。私の場合は、学問に打ち込むことがそれだと考えていた。

だから私は、自分の性欲をポルノによって処理することを選んだ。そうしなければ、道を誤ってしまっただろう。

自由主義社会においては、欲望に従うことが正しい生き方だとされる。したがって、欲望に逆らうことは異端であり、私のような人間は存在しないことになっている。私は成人して以降、周囲から人間らしい扱いを受けたことがない。

この社会においては、目的を持ち、意志を持って生きることは禁止されている。欲望に服従することだけが許されるのである。だからいまの日本には、そしていまの世界には、様々な問題があふれかえっているのだが、誰も問題の根源に触れようとしない。

自由主義とは欲望への服従にほかならず、そこでは自分のために生きることが正しいこととされる。そのため、人々は他人のことを考えず、自分勝手な振る舞いをするようになる。そうした身勝手な振る舞いを抑制するために法治主義が必要とされるが、これはマッチポンプにすぎない。そもそも、自由な生き方を認めなければよい話である。

気候変動も貧困も戦争も自由主義の結果であり、少子化ですら例外ではない。世間には、いまだに資本主義を批判し続ける的外れな経済学者もいるが、ほんとうの問題は自由主義にあるのだ。

令和4年度の内閣府男女共同参画白書によれば、20代女性の婚姻率は2割である。また、国勢調査によれば、すべての年代で未婚率は上昇傾向にある。人口減により母数が減少するのに加えて、婚姻率が低下しているのだから、少子化は加速度的に進行する。

いまは結婚すること自体が難しくなっている。その理由は、私自身の経験に照らしていえば、日本人が自由主義社会に順応していないからである。自由主義とは欲望に従順であることなので、結婚においても自由な欲望の発露が必要になる。つまり、欲望のままに異性と関係を持つことで、はじめて結婚が可能になるのだ。しかし、日本人は欲望のままに行動することに慣れていないし、そうすることに抵抗を感じる者が多い。ゆえに、恋愛結婚が主流になるにつれて、婚姻率は低下することになる。

ときに、恋愛結婚のほうが純粋であり、崇高なものとして描かれることもあるが、恋愛とはつまるところ性欲であり、そこに重要な人間性が秘められているとは考えられない。単純に、欲望を肯定する社会だから恋愛がもてはやされているだけだ。その結果、日本人の婚姻率は低下している。もともと欲望のままに生きることが当たり前の社会風土であれば自由主義でもよいのだが、日本はそうではない。この国は秩序を求めている。

感情の発露には型が必要である。儒教における礼は儀式の型であるが、同時に感情の発露でもある。論語八佾第三4には、「喪は其の易(おさ)めんよりは寧ろ戚(いた)め」。葬式は手抜かりがないことよりも悲しむことが大切だ、とある。

礼は人間社会における秩序である。我々は、秩序があってはじめて感情を制御することができる。それは抑圧ではなく整流である。怒涛のような人間の感情をいかに制御するかという技術が礼であり、それは暴れ川を治め、正しい流路に導くようなものである。

一方で、自由主義とは感情の暴発に他ならない。野放図な欲望の肯定こそが近代社会の原動力である。それはアヘン戦争をはじめあらゆる悪徳を生み出してきたが、そうした犯罪が意識されるごとに、我々の社会は新しい法を作り、これらの悪徳を排除しようと試みてきた。だが、すべては後の祭りである。罪を犯したあとにそれを反省するのではなく、そもそも罪を犯さなければよい話だ。そのために必要なのは自由主義を捨てることであり、礼によって欲望を導くことである。

いま若い女性の婚姻率が下がっているのは、女性の高学歴化が進んでいるからだという。自由主義社会において、人々は己の欲望を満足させることに汲々としているので、他人のことを考える暇がない。したがって、この社会は弱肉強食の自然状態と変わらないものになる。そこでは、自分の身は自分で守らねばならず、それは女性であっても例外ではない。彼女たちは男性と同じようなキャリアを持つことを要求され、そのために恋愛や結婚を犠牲にせざるをえない。その結果は破滅的なものだ。

男は何歳でもよい。私はいま40近い年齢だが、子供を作る能力は十分にある。だが、女は違う。女は若いときにしか子供を産めない。この違いを考慮に入れず、女性に男性と同じ生き方を強いることは、女性に対する虐待にほかならない。男と女は時間の流れが違うのだ。

男女平等は自由主義の必然的な帰結であるが、それは女性から生殖の機会を奪い、人間社会を破滅に導くことになる。これは自由主義社会の自死である。

さて、話題をもとに戻そう。はっきりいって、私は女性にもてない。社交性がないからである。ほんとうは、そういう人間にこそつれあいが必要なのだと思うが、残念ながら、この社会では社交性のない人間は結婚できない仕組みになっている。ほんとうにできの悪い社会である。

お見合い結婚が主流の時代であれば、多くの男性が自分磨きに時間を使う必要はなかっただろう。いまは、すべての男性が女性に気に入られるための努力をしなければならない。ところが、この社会では、その努力を放棄することすら自由なのである。自由主義社会では、あらゆる人間の紐帯が断ち切られ、それらはもともと人間にとって必要のないものとみなされてしまう。すべての人間は自分ひとりで充足している。それが自由主義の大前提である。

だが、そんなわけはない。男と女はふたつでひとつの生き物である。これを切り離して考えることが許されてよいはずはない。私がこんなことを言うのは変かもしれないが、独身で満足している人はほんとうの幸福を知らないだけだ。人間どうしが支えあうところに倫理が生まれ道徳が生まれる。この社会にはその基本的な条件が欠け落ちている。

そして、男女の結びつきが自然に行われる社会ではじめて、私のように理想を追求する生き方も意味を持つ。だから、いまのままでは、私はただのモテない男になってしまう。どうもやり方を変えたほうがいいようだ、と最近思う。

長いあいだ実社会に触れていなかった人間にとって、社会復帰の道は遠い。いましばらく努力を続ける必要がある。

ちょっと疲れているので、気分転換も兼ねて、久しぶりに自分語りをしてみた。お見苦しいものをお見せして、大変申し訳ない。

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