中道

1

仏教の基本的な考え方は、中道という言葉で表現されます。

中道とはなんでしょうか。

1.1

具体的に考えるために、死後の世界を例にとってみましょう。死後の世界は存在するのか、しないのか。誰もが一度は、こういう問題を考えてみたことがあるのではないかと思います。

ここに、死後の世界は存在しない、と考える人がいたとします。彼は、一体どのような根拠に基づいて、自分の主張を正当化するのでしょうか。

1.2

次のように考えてみましょう。

いまでこそ我々は、月の裏側がどうなっているかを知っています。一九五九年、ソ連のルナ三号という衛星が、月の裏側の写真を撮ることに世界で初めて成功しました。それ以来多くの調査が行われてきたので、そこがどのような場所なのか、我々はよく知っています。しかし百年前には、人類の誰も月の裏側を見たことはありませんでした。

そこで、百年前に、次のように考えた人がいたとします。

「月の裏側を見たことがある人は、一人もいない。ゆえに、月の裏側は存在しない」

さて、この考えは正しいでしょうか、間違っているでしょうか。

明らかに間違っています。

あるものを見た人がいない、という前提から、それが存在しない、という結論を引き出すことはできません。そのような推論は、確実に間違っています。

1.3

死後の世界に話を戻しましょう。

私が知る限り、死後の世界は存在しない、と主張する人々の推論はまさに、「月の裏側は存在しない」と考えた人の推論と、まったく同じです。彼らの主張を簡単に表現すれば、次のようになるでしょう。

「死後の世界を経験した人は、一人もいない。ゆえに、死後の世界は存在しない」

よって、彼らの推論は、先ほどの推論と同じく誤りです。

1.4

では、正しい推論とはどのようなものでしょうか。

それは、次のようになるでしょう。

「死後の世界を経験した人はいない。ゆえに、死後の世界は存在するとも言えないし、存在しないとも言えない」

これが、唯一の正しい推論です。これ以外の答えは、我々が知りうる知識からは導くことができません。それが存在するという考えも誤りであり、同様に、存在しないという考えも誤りです。

これが中道です。何かがある、ということにも、ない、ということにもこだわらない、ということです。分からないことは、分からない、と、ありのままに認識すること。それが正しい知恵です。

2

しかし、ここで、次のような疑問を抱く人がいるでしょう。今までの議論が正しいとすると、なぜ仏陀は地獄の話をされたのだろうか、と。

この疑問は正当なものです。たしかに仏陀は様々なお経の中で、地獄や天国、つまり死後の世界についてお話をされています。これは、どのように考えればよいのでしょうか。

2.1

この問題を考えるにあたって、中阿含経に収められている、一つのお経が参考になります。そこで仏陀は、死後の世界に疑問を抱く信者に対して、ユニークな回答を与えています。

彼はまず、全体を二つの場合に分けます。死後の世界が存在する場合と、存在しない場合です。

これは世界の状態に関わることであり、個人の意思とは無関係な場合分けです。あなたがどう思おうが、死後の世界はあるならあるし、ないならない、とあらかじめ決まっています。あなたの意思によってそれを変えることはできません。

次に、二つの場合のそれぞれを、さらに二つの場合に分けます。あなたが死後の世界を信じる場合と、信じない場合です。この二つの選択肢は、あなたの意思によって変えることができます。

以上によって、二掛ける二で、合計四つの場合分けをしたことになります。

 1. 死後の世界が存在し、あなたがそれを信じている場合
 2. 死後の世界が存在せず、あなたがそれを信じている場合
 3. 死後の世界が存在し、あなたがそれを信じていない場合
 4. 死後の世界が存在せず、あなたがそれを信じていない場合

この四つで、すべての場合が尽くされています。これらについて、ひとつずつその中身を検討してゆきます。

一つ目の場合

この場合、あなたは死後の世界を信じているので、天国に行くために善い行いを心掛けるでしょう。それは実際に存在するので、死後は天国へ行けます。

二つ目の場合

この場合、あなたは死後の世界を信じているので、天国に行くために善い行いを心掛けます。そのため、世間においてあなたの評判は高くなり、人徳のある立派な人間として、満足した人生を送ることができます。

三つ目の場合

この場合、あなたは死後の世界を信じていないので、とくに善い行いを心掛けることはないでしょう。

そうすると自然に、善を行うことは少なくなります。あなたは体面を保つために、人前では行儀良く振舞うでしょう。しかし人に見られていないところでは、気が緩み、小さな悪を積んでゆくことになります。人間の心は、善を行うことを怠れば、必ず悪を為すようになります。

したがって、あなたは結局、地獄に落ちることになるでしょう。

四つ目の場合

この場合、あなたは死後の世界を信じていないので、とくに善い行いを心掛けることはないでしょう。よって、あなたの心は次第に悪に傾いてゆきます。そのため、あなたに対する世間の評判は悪くなり、人に軽蔑されながら、苦しい人生を送ることになります。

さて、以上の考察を表にまとめてみましょう(表 1)。

表 1 死後の世界
信じる信じない
存在する×
存在しない×

ここから分かることは、死後の世界が存在するならば、当然それを信じたほうがよいし、たとえ死後の世界が存在しなくとも、それを信じていれば良い結果が得られる、ということです。

逆に、死後の世界を信じていない人は、それが存在する場合も、しない場合も、共に不幸な結果を得る、と言えます。

以上のことから、死後の世界の有無にかかわらず、それを信じるべきだ、と結論できます。

これが、死後の世界に関する仏陀の意見の一つです。それを信じることは無条件によいことだから、信じるべきだ、という考え方です。

2.2

ここで、信仰と行動の関係についてさらに考察してみましょう。

まず、死後の世界を信じていない人の、心の動きに注目してみます。この人は、それは存在しない、と信じきっています。彼が考えを変えて、それを信じるようになる、ということはありうるでしょうか。

もしも、彼がそれを信じるようになったならば、自分の生き方を変える必要が生じます。彼はこれまで善を為すことを意識せずに生きてきましたが、これからは善を為す努力をしなければなりません。それは、彼にとって大きな負担になるでしょう。さらに彼は、そのことによって、今までの自分の人生を否定しなければならなくなります。このことも、彼に大きな苦痛を与えるでしょう。

つまり、死後の世界が存在しない、という考えをひとたび受け入れてしまったならば、その考えを変えることはとても難しくなる、ということです。

もしも、死後の世界が存在し、そこで人生の結果に直面しなければならないのだとすれば、彼は、自分がろくでもない人間であったという現実を突き付けられることになります。そのことは、彼の心をひどく傷つけるでしょう。しかし、もしもそれが存在しないのだとすれば、そのような事態は避けられます。彼は、自分自身の現実の姿を見ずに済むようになります。したがって、それは存在しないほうがよいのです。

つまり、彼の自尊心を守るためには、死後の世界は存在してはいけない、ということです。こうなると彼にはもはや、それが存在する、という可能性すら考えることができなくなってしまいます。彼の心がそれを拒絶してしまうのです。このようにして彼は、我々と同じ前提から出発して、死後の世界は存在しない、という誤った結論を導くことになります。

一方で、死後の世界を信じている人間は、自分自身の状態を肯定しています。死後には良い結果が得られるだろうし、たとえそれが存在しなくとも、彼の人生には何の負い目もありません。

彼の方がむしろ、それが存在しない、という可能性を受け入れることができます。したがって彼は、正しい判断を下すことができるでしょう。

2.3

いったい、彼我の違いはどこにあるのでしょうか。

それは、現実に善い行いをしているかどうか、という点にあります。死後の世界を信じる人間は、善を積みます。それによって彼は、偏見を持たずに、正しい判断を下すことができるようになります。逆に、善を積むのを怠るならば、彼の判断力は偏見に歪められ、知恵は曇ります。

悪を避け、善を為すこと。それが中道です。中道を歩むならば、心が清らかになります。心が清らかになれば、正しい知恵が芽生えます。つまり、善を積むことで知恵が生じるのです。もしもこの道を踏み外すならば、あなたの心は無知の暗闇に落ち込んでしまうでしょう。

結局のところ、仏教の本質は次の偈に尽くされています。

 諸悪莫作 衆善奉行
 自浄其意 是諸仏教

(悪をなすことなく、善を行い、
 自らの心を浄めること、これが諸仏の教えである)

3

ここまで考察してきたのは、死後の世界は存在しない、という主張についてでした。しかし世の中には、これとは正反対の主張を行う人々がいます。次に、彼らについて考えてみましょう。

3.1

具体例として、キリスト教徒を取り上げましょう。彼らは、来世が存在し、また、神が存在する、と考えています。彼らの主張を検討してみましょう。

驚くべきことに、キリスト教徒の中にも、仏陀とまったく同じ方法で考察を行った人物がいました。フランスの数学者パスカルは、神の実在と信仰について、場合分けによる分析を行いました。

彼はまず、全体を二つの場合に分けます。神が存在する場合と、存在しない場合です。次に、それぞれの場合を、神を信じる場合と、信じない場合の二通りに分けます。よって、合計で四つの場合があることになります。これらすべての場合について、彼はひとつずつ考察を行いました。

キリスト教の信仰によれば、もしも神が存在するならば、神を信じるものは天国へ行き、神を信じないものは地獄に落ちます。

一方で、もしも神が存在しないならば、神を信じていても、いなくても、違いは生じません。

結果をまとめると、表 2 のようになります。

表 2 キリスト教の神
信じる信じない
存在する×
存在しない

ここからパスカルは、神が存在する可能性が少しでもあるならば、神を信じたほうがよい、という結論を引き出しました。控えめに言っても、これは曖昧な答えです。

さて、この表をよく見ると、先ほどの表 1 と似ていることに気が付きます。しかし、二列目の結果が異なっています。この違いはどこから来たのでしょうか。

3.2

違いは、天国へ行くための条件にあります。

仏教では、善を行うものは天国へ行く、とされていました。一方でキリスト教では、神を信じるものは天国へ行く、とされています。ここに、仏教とキリスト教の決定的な違いがあります。

キリスト教によれば、ある人が悪人であっても、神を信じるならば天国へ行くことができます。また、その人が善人であっても、神を信じないならば地獄に落ちます。極端なことを言えば、どれほど悪いことをした人であっても、神様さえ信じていれば天国へ行けるのです。そうであるならば、神を信じる者にとって、善を行うことは何ら重要なことではありません。したがって彼は、善を行おうという積極的な意志を持つことができません。それゆえ彼の心は少しずつ、悪へ傾いてゆくことになります。

善を行うということは、苦労の多いことです。したがって、しっかりとした意志を持っていなければ、善を積むことはできません。そのような意志が欠けている場合、その人は簡単に悪に染まります。

彼は、他者からの非難を恐れるために、人前では行儀良くふるまうでしょう。しかし、人に気付かれる心配がない場合は、善を行う必要はありません。彼にとっては、善を行うよりも、悪を為すほうが容易なのです。こうして、彼の心は少しずつ汚れてゆくでしょう。

それでも、彼には何の不都合もありません。なぜなら、死後には神様から認めてもらうことができ、天国へ行くことができるからです。つまり、もしも神が存在するならば、それだけで彼は立派な人間になれます。

しかし、もしも神が存在しなかったとしたら、彼はただのくずです。そのため彼の心は、自分の自尊心を守るために、神が存在しないかもしれない、という可能性を考えることすら拒絶するようになります。

そうして彼は、我々と同じ前提から出発して、神は存在する、あるいは、死後の世界は存在する、という誤った結論を導くようになります。このようにして、彼の判断力は歪められます。

3.3

こうした誤った判断の原因は、どこにあるのでしょうか。

それはひとえに、諸悪莫作を実践しないことにあります。善を積むことを怠ったために、彼の心は汚れ、偏見の網にとらわれます。そのために、正しい判断を下せなくなってしまいます。

善を行うことは、正しい知恵を獲得するための唯一の道です。

4

4.1

また、ここで行った考察は、善悪の具体的な内容によらない、ということに注意してください。

仏陀は、何が善であり、何が悪であるか、ということを厳密に定義されなかった、と私は考えます。仏教はある意味で、善悪に関して開かれています。

4.2

また、以上の考察は、いわゆる依存症にも当てはまるのではないかと思われます。依存症を引き起こす薬物には、それを服用した人の判断力を歪める作用があるのではないでしょうか。

個人的な経験から言うと、アルコールを普段から服用する人は、そうでない人と比べて、アルコールの価値を異常に高く評価しているように思われます。飲酒には様々な欠点があるにもかかわらず、彼らはその欠点を無視しているように見えます。

依存性のある薬物には、その薬物の欠点を見えにくくするはたらきがあります。それは、人間の認知機能に作用していると考えられます。薬物依存症である、ということと、薬物依存症になりつつある、ということの間には、何の違いもありません。

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