芸術と模倣

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 芸術とは自然の模倣である。西洋人にとっては、それは自然の輪郭を模倣することである。絵画や彫刻はそれを理想としている。一方で東洋人にとっては、それは自然の運動を模倣することである。そしてこちらの方が、人間の原初的な認識に近いと考えられる。
 自然を認識するとき、我々はまず動きを認識している。そのものがどのような輪郭をしているか、どのような色をしているか、どのような物体であるか、ということよりも、それがどちらへ向かって動いているのか、近付いているか、遠ざかっているか、という認識の方が先にあるはずである。

 たとえばカエルは、動いているものしか認識できないと言われている。それは当然で、動物の神経細胞を使って、ものを認識するシステムを構築しようとした場合、ものの輪郭を認識する神経回路よりも、ものの動きを認識する回路の方が、簡単に作れるはずである。前者は、どうしても複雑な回路にならざるをえない。
 なぜならば、我々の神経細胞自身が絶えず活動するものだからである。動くものによって静止したものを模倣するよりも、動くものによって動くものを模倣したほうが、効率が良いのは明らかであろう。ゆえに我々の世界認識は、まず動きを認識するという形で行われる。次に、ものの輪郭が認識される。
 芸術が自然を模倣することであり、すなわち、我々の自然認識を模倣することであるならば、動きを表現する芸術こそが一次的なものであって、輪郭を表現する芸術は二次的なものにすぎない。ゆえにアニメーションは、絵画や彫刻よりもより原初的、かつ純粋な芸術であると言える。

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 芸術を鑑賞するということは、芸術家の自然認識を鑑賞するということである。その人が自然をどう認識しているのか、自然をどう捉えているのか、ということが表現の上に現れる。我々はそれを見て、自分では今まで気づかなかった、自然の別の側面に気づかされる。だからこそ、新しい表現に出会うと、我々は感動する。他者の自然認識を通して、自然の本当の姿に近づくことができるからである。
 深夜のテレビを見ていると、ときどき、明らかに低予算なのに、驚くほどよくできたアニメーションに出会うことがある。文字通り、アニメーターが魂を削って描いているような作品である。そういうものを見ると、目が離せなくなる。すごいものを見た、と感じる。それもやはり一つの芸術である。

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 ある意味で、人間の認識は自然の模倣である。我々が自然を認識するということは、我々の脳内の神経細胞が自然を認識するということである。そして、異なった現象の認識には、異なった神経活動が対応する。したがって、自然現象と我々の脳の活動の間には、一対一の対応関係が存在することになる。それは、脳が自然を模倣しているということである。
 では、芸術とは何か。我々の認識そのものが自然の模倣であるならば、それをさらに模倣する芸術という行為には、一体どんな意味があるのか。そして芸術を鑑賞するとき、我々は何を見ているのか。

 画家が山を描くとき、彼は、彼自身の認識を、彼の身体を使って表現しているのだろうか。彼の認識と彼の動作との間に、どんな関係があるのだろうか。彼は、彼が見たものを正確に描き写した時に、よい画家だと言われるのだろうか。それとも、彼が見たものと彼が表現するものとの間に、何らかの関係が存在するときに、よい画家だと言われるのではないか。
 我々は芸術家の表現の中に、自然との対応関係を見出す。その対応関係が、自分自身の内側にあるものから少しずれているときに、我々はそれを面白く感じるのではないか。つまり、人間の認識は自然の模倣であるが、その仕方は、それぞれの人間で少しずつ違う。その違いを表現できるような感性と技術を持った人間が、芸術家と呼ばれるのだろう。

 ゴーギャンは、女の肌を描くときに緑色の絵の具を使う。我々はそれを、自然で美しい表現だと思う。しかし、その表現の本当の意味は、彼がどのような場合に緑色の絵の具を使わないか、ということの中にある。そのような観察によって、何らかの印象が得られるような画家こそが、芸術家と呼ばれうるのだろう。

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 たとえば油絵のように、何度も筆の上に筆を重ねることによって、西洋の芸術は筆の動きを覆い隠してしまう。画家がどのように手を動かし、身体を動かして線を描いたのか、分からなくなってしまう。一方で、書は書き直しが許されない。書家が一度書いた線はそのまま残される。そのため、その線を書いたときの身体の動きが、書の上に現れるのである。
 油絵を見るとき、我々は絵を見るだけだが、書画を見るときは、それ以上のものを見ているのである。

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