冤罪について

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私は、犯罪者をとり逃すぐらいなら、多少の冤罪は構わないと思う。最近の世間は、犯罪者に優しすぎる。そういう態度は決して良い結果を生まない。悪を憎む心が足りないということは、最も恐ろしいことである。

冤罪をなくすことはできないし、なくそうとするべきでもない。そうではなく、犯罪をなくさなければならない。たとえば、痴漢をする人間がいなくなれば、痴漢の冤罪で捕まる人もいなくなるだろう。犯罪があるから冤罪が生まれる。それなのに、冤罪だけをなくそうとしても、上手く行くはずがない。犯罪がなくなれば、冤罪は自然になくなるだろう。

そのために、悪には悪で報いなければならない。何が悪であり、何が善であるか、ということをはっきりと認識することが、犯罪をなくすための第一歩である。刑罰はそのためにある。ゆえに、死刑は必要である。それは、我々の認識を正すために必要なことである。

冤罪の被害にあった人は、公権力によって害されたわけではない。犯罪者によって害されたのである。

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キリスト教は犯罪者に甘い。そして、現代のリベラリズムや人権主義も、その流れを汲んでいる。キリスト教は、ある意味で犯罪者のための宗教である。それは犯罪者を救済することに最も長けている。

彼らの教義によれば、すべての人間は罪びとであり、生まれながらに大罪を背負っている。だから、生まれた後でいくら罪を犯しても、大したことはない、ということになる。これは犯罪者にとっては、この上もない慰めである。

私は、キリスト教系の宗教団体の活動には、宗派を問わず厳しい規制を設けるべきだと思う。オウム真理教のような宗教団体が現われた背景には、キリスト教を野放しにしていることが原因としてあると思う。キリスト教は、オウム真理教よりも異常で危険である。キリスト教が取り締まりを受けるようになれば、他の新興宗教も気炎を上げづらくなるだろう。

どれほど熱心に神を信じていても、悪人は地獄に落ちる。神を信じてさえいれば天国へ行けるというのは、ただのおとぎ話である。

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