仏教と表現

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仏教では、言語表現を大事にする。もちろん、言語に限らずどんな方法でもよいのだが、自分が手に入れた悟りを言葉で表現する、他者に伝えるということが非常に重視される。

禅の語録などを読んでいると、速やかに言え、という言葉がよく出てくる。それは、悟りを表現してみろ、ということであり、それができて初めて悟りを得たと言えるのである。

自分一人が悟るだけなら、そこで仏教は終わってしまう。それを他人に伝えることで、仏教は続いてゆく。だから、それをいかに表現するかが重要である。宮沢賢治の童話も、そういうものだったのだと思う。あれは悟りの表現である。


悟りというものは、それほど神秘的なものではなく、現実的な一つの認識である。ある意味では、それほど大したものではない。もちろん非常に大事なものだが、超越的なものでは全くない。それは現実にあるものである。

だから、昔の偉い坊さんはみんな悟りを開いていた。法然も親鸞も悟っていたが、本当の問題はその後にあった。それをいかにして広めるか、いかにして衆生を悟りに導くか、ということが問題だったわけである。それは一般的に言えば、悟りの表現の問題である。自分が知っていることをどうやって相手に伝えるか、という表現手段の問題であり、その手段の違いがそれぞれ禅となり念仏となり真言となっていったわけである。

伝えるべきことは一つである。その点が普通の表現者とは異なる。芸術家はそれぞれ自分自身を表現しようとするが、仏教徒が表現しようとすることは、みな同じである。そのたった一つのことを表現するために、何万何億何兆言もが費やされてきた。それらはすべて同一の認識を伝えるためのものである。

あらゆる言葉で語り尽くされ、それでもまだ足りない。どれだけ言葉を重ねても、新しく出てくる人間のために、また語り直さねばならない。ここに終わりはなく、その終わりのない営みの連続が仏教である。

2

最近の日本人は、仏陀の教えを軽んじているようである。おそらく、自分は仏陀よりも賢いと考えているのだろう。そういう人間を馬鹿と言うのだが、自分が馬鹿であることにも気づかなくなっている。

昔よりも今の方が人間は賢くなった、という考えに根拠はない。だいたい、数千年程度で人体の構造が変わるはずもなく、人間の脳も大して変わったわけではない。だから、現代人の知性が、過去の人類よりも優れていると考えるべき理由はないのだが、何事も自分が一番優れているといううぬぼれのために、現代人が一番偉いと考える人が多いのだろう。

それがまさに馬鹿ということであって、仏教では慢、あるいは我慢と言う。しかし、仏の教えを軽んじる人は、そんな単純なことにも気づかない。馬鹿であるということは、自分が馬鹿であることに気づく機会すら奪ってしまう。無明の恐ろしさはこういうところにある。

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