桜を植える

いまでも人は平和、平和というが、日本ほど平和な国はない。たとえば江戸時代の二百六十年間は、かつてない平和な時代であった。では同時代のヨーロッパはどうだったかといえば、市民革命や宗教戦争やナポレオン戦争や、ほかにも様々な戦争があり、血で血を洗う闘争のオンパレードである。

しかもそれはヨーロッパの中だけの話で、外に出るともっとひどい。アジアやアフリカに軍隊を連れて乗り込んで、武力で征服し植民地を作り、プランテーションを経営して住民を奴隷のように働かせる。他方ではアフリカの人間を誘拐して船で運び、アメリカの鉱山に連れて行って強制労働をさせる。労働環境が過酷なので黒人はバタバタと死んでゆくが、足りなくなると補充すればよいといって、またアフリカから人を誘拐してくる。まさに地獄絵図である。ヨーロッパはこの世界に地獄を作り出した。

そのとき日本はどうだったかといえば、何事もない、平和な世の中である。二百六十年間一つの戦争もない、平和な時代が続いていた。ヨーロッパと日本のどちらが優れていたかなど、比べる必要もない。そこには月とすっぽん、天国と地獄ほどの違いがある。日本の文化のほうが、ヨーロッパよりも圧倒的に優れているのである。我々がヨーロッパから学ぶことなど一つもない。ヨーロッパの文明は地獄の文明である。


日本人の間違いは明治維新から始まった。日本の文化を捨てて欧米の文化を学び始めた。それによって、日本人は人間性を捨ててしまった。もちろん、全てがなくなってしまったわけではない。しかしそれは、少しずつ彼らの心を蝕んでいったのである。

そもそも、新政府には道理がなかった。徳川幕府にどんな落ち度があったのか、彼らがどんな罪を犯したのか、それを明らかにしないまま、薩長はかつての主君に弓を引き、逆賊と呼んで滅ぼしてしまった。それはまるで、自分たちの邪魔をするものはみんなやっつければよい、というような、短絡的な行動であった。

こうして生まれた明治維新というものを、学校やテレビで良いものだと教えてもてはやす。だから日本人は馬鹿になってしまった。薩長土肥のしたことは、キレる若者と変わりがない。都合の悪いことは全部無視して、自分の我を通しただけである。それを良いことだと教えるから、何も考えない人間がどんどん増える。自分のやりたいことをやればよい、他人の迷惑は考えなくてよい、そういう考えが幅を利かすようになったのは、明治維新が原因である。

そういう状況の中で、日本と中国の関係は、つねに葛藤の元であった。日本人としては、中国に独立してもらいたい、という思いは強くあった。欧米の力を排除して、中国人による中国人の国家を建設する。日本人の誰もがそれを望んでいたと言ってよい。しかし、中国との関わりが深まるにつれて、日本人の中にも欲が出てくる。これは儲かる、いい商売になる、そういう考えが出てきてしまう。そうなると、もはや日本人も欧米人と変わらない、けだものだと言われるようになる。己の利益のために、中国を搾取しているのだと。その自覚も当然あった。だが、ただのけだものだったわけではない。我々はやはり中国の独立を望んでいた。そこには耐えがたいほどの葛藤があった。それは中国人にとっても同様である。彼らもはじめは日本に期待し、自分たちを救ってくれるのだと思い込んでいた。それが日本人の行動を見るにつけ、失望へと変わる。そこにもまた葛藤があった。日本を知り日本人を知る中国人は、それでも日本に期待することがあった。それはときに報われ、ときに裏切られた。裏切りのほうが、人の心に強く残った。

それらすべてを清算するために、我々は大東亜戦争を始めた。それは自滅のための戦争だったという人がいるが、正しい理解である。己の中の獣性を滅ぼすための戦争であった。ヨーロッパから持ち込まれた獣性を、日本文化の精神性で消し去ろうとする戦争であった。

だが、それでも足りなかった。無明の力はあまりに強い。あの大戦争でさえ、我々の中の獣性を消し去るには至らなかった。むしろ時代が下るにつれて、日本人は獣に戻りつつある。


公共性が、人々の心から失われつつある。以前、ある実業家が、twitter上で百万円をばらまくというニュースがあった。それを公共のための金の使い方だと称讃する人もいたが、ずいぶん貧乏くさい話である。たとえば弘前城の桜は、民間人が植えたものである。地元の篤志家が自分で苗を植えて桜を育て、それが今では観光名所になっている。twitter上の百万円は一瞬で消えるあぶく銭だが、お城に植えた桜は百年経っても人の心を楽しませることができる。それが本当の公共性である。

自分で稼いだお金を自分のために使っても、虚しく消えるだけである。それを公共のために使うならば、百年も二百年もこの世に残る。永遠に失われることがない。自分のお金を自分だけのものだと考えるのは、ただの傲慢である。それは公共のために使われることで、はじめて価値を持つのである。公共性は、政治家が実現するものではないし、国家が実現するものでもない。一人ひとりの人間が心の中に持つべきものであり、個々人の実践を通して、はじめて公共性が成立する。昔の日本人は私財を投じて桜を植え山を作り、日本の国土を作ってきた。それは己のためにしたのではなく、公共のためにしたのである。それを、寄付だとかチャリティーだとかいって宣伝した人は一人もいない。黙ってやらねばつまらないからである。それに比べて、今の日本の公共性はあまりに貧乏くさい。

日本列島は釈迦牟尼仏に捧げられた仏国土である。我々はこれを美しく荘厳せねばならない。

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