吉本隆明と誹謗正法

吉本隆明は、麻原彰晃も念仏さえ唱えれば極楽へ行ける、と言った。なぜかといえば、浄土真宗の開祖親鸞によれば、たとえ五逆の罪を犯した者でも、念仏によって極楽へ往生できるからである。

ここで問題とされているのは、弥陀の誓願の第十八、念仏往生の願の後半に現れる「ただし、五逆と誹謗正法とを除く」という一文である。この願は、念仏を十回でも唱えたものはみな極楽へ往生できる、ということを明らかにしているが、そこには例外がある。それが、五逆を犯した者と、正法を誹謗する者である。五逆とは、最も重いとされる五つの罪であり、父母を殺したり、仏陀の身体を傷つけたりすることをいう。


ここにどんな問題があるのだろうか。実は、無量寿経では以上のように説かれているのだが、観無量寿経の中には、五逆を犯した者でも往生が可能である、と解釈できる記述がある。この二つの経典間の食い違いを、いかに理解するかということが、一つの課題だったわけである。

親鸞は様々な考察の末、五逆の者は往生できる、という結論を得た。無量寿経の所説は、五逆を犯した者であり、かつ、正法を誹謗する者は往生できない、という意味だと理解したのである。つまり、五逆であっても誹謗正法でなければ往生は可能である。一方で、誹謗正法の者は、五逆を犯していなくても往生は出来ない、ということをも親鸞は認めている。

では、誹謗正法とは何か。正法とは仏法であり、仏法を謗る者が誹謗正法である。仏法を謗るとは、仏の教えには価値がないとか、あるいは、仏は存在しないとか、悟りは存在しないとか、そういうことを心で考え、口で言い、正しい教えを否定しようとする者のことである。

この社会の秩序が保たれているのは、社会に正義があり、人が従うべき法が明らかにされているためである。そして、人が正義を知り法を知るのは、正しい教えを聞くことによってである。ゆえに、もしも正しい教えが否定されたならば、社会から正義は失われ、悪がはびこることになるだろう。誹謗正法は、その行為自体には罪がないように見えるが、実際には、あらゆる悪業が生じる原因である。したがって、その罪は五逆よりも重い。


冒頭の話に戻れば、麻原彰晃は、たしかに重い罪を犯しはしたが、しかし正法を誹謗したわけではない。したがって、念仏さえ唱えれば、極楽へ往生する資格はあった。一方で、吉本隆明は、明らかに正法を誹謗していた。彼は悟りを否定し、仏の教えとその価値を否定していた。ゆえに、彼がどれだけ熱心に念仏を唱えたとしても、極楽へ行くことはできなかっただろう。仏教的な観点からすれば、麻原彰晃よりも吉本隆明の方が遥かに罪が重いのである。

アングリマーラは悟りを得たが、ダイバダッタは地獄に落ちた。仏の知恵は妙不可思議である。

参考リンク

親鸞について

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