『杜甫全詩訳注』を読んで

もしも日中戦争当時に三峡ダムが完成していたならば、日本軍は悠々と四川に攻め込むことができただろう。そして重慶を落とし巴蜀を平定することができれば、山西省の部隊と呼応して、西安に潜む共産党を挟撃することができたはずである。そうすれば毛沢東は西に逃げるしかなく、蘭州を通って西域に落ち延び、タクラマカン砂漠でベドウィンに成り果てたことだろう。

日本軍は何としてでも四川に攻め込むべきであった。それができなかったから負けたのである。戦争は中途半端が一番いけない。日本が負けたのは、最後まで中国を征服する意志を持てなかったからである。


杜甫は初め蘭州から蜀に入ったものらしい。その後成都で工部員外郎の職を受け、長江を下って首都長安を目指す旅に出た。しかし彼が長安に到達することはなく、生涯流浪の旅を続けることになった。蜀に入る道すがら、彼は次のような詩を作っている。

 清江下龍門 絶壁無尺土
 終身歴艱険 恐懼従此数

(清らかな川が龍門を流れ下る、両岸の絶壁にはわずかな土地もない。
 私は生涯、危険な道を通って行くことだろう、恐れおののくほんとうの経験は、ここから一つずつ数えられていくのだ。)

彼は自分の将来を予見していたようである。


かつて諸葛亮は、五丈原において司馬懿と兵を戦わせた。成都から長安をうかがったのだが、彼はどんな道を通って関中に出たのだろうか。結局、蜀軍が天下を取ることはできない運命なのかもしれない。日本は魏と呉を合わせた地域を占領したが、秦嶺に潜んだ共産党が最後には中華を統一した。

彼らは日中戦争をグロテスクな絵巻物に変えてしまったが、それではいかにも詩情に乏しい。板垣や土肥原の名前を聞いただけで、中国人は震え上がったと言われている。それを張遼や夏侯惇と比べることはできないのだろうか。

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