リベラルと保守

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リベラリズムとは、精神の自由を信じる立場である。保守とは、リベラリズムに賛同しない立場である。

そもそも保守という言葉には、反リベラリズムという意味しかなく、積極的な内容のある言葉ではない。その人が精神の自由を認めないならば、どんな立場であれ保守と呼ばれる。


では、リベラリズムの正当性はどこにあるのか。

彼らの主張はすべて、人間の精神は自由である、あるいは、自由であるべきだ、という前提に立脚している。しかしながら、人間が自由な精神を持っている、ということを示す証拠はどこにもない。むろん、精神の自由は存在しない、という証拠もないが、それが存在する、という証拠がないことも明らかである。つまり、精神は自由である、という主張は単なる思い込みに過ぎず、いかなる根拠も存在しない。したがって、そこに妥当性がないという意味で、リベラリストの主張はすべて誤りである。ゆえに、どんな場合でも常に保守が正しく、リベラルは誤りである。

また、人間は自由であるべきだ、という主張は、人間は本来自由である、という主張とセットになっていることに注意すべきである。人間が本来持っている精神の自由を発揮するために、それが発揮されうるように社会制度を変えるべきだ、ということがリベラリストの主張である。しかし、人間は本来自由である、という主張に根拠がないことは既に述べたので、リベラリストの主張はやはり誤りだと言える。そこに妥当性がないという意味で、誤りである。

2

このようなリベラリズムの主張の起源は、明らかにキリスト教にある。キリスト教によれば、人間には魂があり、魂そのものは肉体の影響を受けない。その魂の観念を言い換えたものが自由である。そして、リベラルと保守という二元論の起源もキリスト教にある。それは、肉体と魂、善と悪、天使と悪魔のような、原始的な二元論の一種である。

リベラリストは、リベラルな主張を信じる人々と、信じない人々に世界を二分してしまう。それは、キリスト教徒と非キリスト教徒、ヨーロッパ圏と非ヨーロッパ圏、白色人種と有色人種、という区分とほぼ一致する。

しかし、そのような区別はすべてまやかしに過ぎない。なぜならば、リベラリストの主張はそもそも、一つの主張として成立していないからである。上に述べたように、リベラルの主張には根拠が存在しえないので、独立した主張として認めることができない。したがって、リベラリストは存在しない。リベラリストなるものが存在する、という考えそのものが誤りである。実際には、彼らは自分の思い込みを語っているだけであり、理性的な話者として議論に参加する資格はない。

3

真剣な議論の場では、それぞれの論者は、自分の主張の根拠を示しながら、自説を述べる必要がある。したがって、原理的にその根拠を示しえないような主張を行う人間は、議論に加えられるべきではない。

もちろん、権威が認められている人物の言葉は、正当な根拠として認められるべきである。しかし、預言者や聖書の言葉は権威として認められない。なぜならば、彼らは神の声を聴いたと主張しているが、それを証明する手段がないからである。また、プラトンやアリストテレスの言葉、あるいは、彼らの所説に基づく哲学者の言葉も、権威として認められない。なぜならば、プラトンとアリストテレスの所説が誤りであることは、私がすでに証明したからである(「空の論証」参照)。

また、近代的な哲学はすべて、アリストテレスの影響下にあることも指摘しておかねばならない。たとえば、カントの学説が、スコラ学の知識の上に成り立っていることはよく知られている。ヨーロッパ近代哲学の基礎をなしているのはスコラ学であり、スコラ学とは、アリストテレスの学説を研究することである。ゆえに、近代哲学はすべて、アリストテレスの学説に基づいていると言える。したがって、一切の哲学者の言説は、議論の根拠として認められない。

異論のある者は、私の論文をよく読んで、その誤りを指摘してもらいたい。

4

そもそも、自由意志が存在する、という主張は意味をなさない。なぜならば、もしも自由意志が存在するのであれば、自由意志は存在する、とすべての人間が主張するべきであって、自由意志は存在しない、と主張することは許されない。逆に、もしも自由意志が存在しないのであれば、自由意志は存在しない、とすべての人間が主張するべきであって、自由意志は存在する、と主張することは許されない。

つまり、彼が、自由意志は存在する、と主張しうるかどうかは、実際に自由意志が存在するかどうか、ということに左右されるのであって、この点において、彼に自由はない。自由意志が存在するのであれば、自由意志は存在する、と主張しなければならず、自由意志が存在しないのであれば、自由意志は存在しない、と主張しなければならない。ゆえに、自由意志は存在する、という主張そのものが、自由意志が存在しないことの証拠になっている。なぜならば、彼には、それ以外の主張を行う自由はないからである。このような主張は、まともな理性の持ち主には為しえないものである。

ここで、もしも彼が、自由意志はたしかに存在するが、私には、自由意志は存在しない、と主張することも可能である、と言うならば、彼は、自分が嘘をつく可能性があることを認めていることになる。そのような人間には、真剣な議論の場に参加する資格はない。真剣な議論を行うためには、議論に参加するもの全員が、決して嘘をつかないことを誓わなければならない。一人でも嘘をつく者が混じっていたならば、その議論を通して意味のある結論を得ることはできない。ゆえに、リベラリストには真剣な議論に参加する資格はない、と言わざるをえない。

自由意志は存在する、という意見には妥当性がないので、そう主張することは許されない。しかし、自由意志は存在しない、と主張することは許される。その場合、自由意志は存在しない、という主張は、自由意志が存在するという主張には根拠がない、という意味に理解されるべきである。

<参考>
表現の自由
自由意志と責任
吉本隆明と誹謗正法

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