物語と理念(『鬼滅の刃』感想3)

『鬼滅の刃』ブームもそろそろ落ち着いてきたので、今のうちに書いておく。この作品はよくできている。語り口が丁寧で、誰が見ても楽しめる王道の少年漫画になっている。ただ、中身が空っぽである。

たとえば『半沢直樹』には、核となる理念がある。社会はこうあるべきだとか、人はこうあるべきだ、という理想があるので、ご都合主義だったり、細かいところに矛盾があっても、物語に引き込まれる。中心がしっかりしているので、周りが多少ぼやけていても気にならない。

鬼滅はそれとは逆で、物語は丁寧に作られており、誰でも感情移入しやすくなっているが、理念がない。物語をぐいぐい引っ張っていくような熱気がない。そういう熱気のある作品は、きれいな物語にはならない。ストーリーの整合性よりも、ここはこうあるべきだ、という理想が先走ってしまうからである。そのいびつさが面白い。

鬼滅は中身が空っぽだからこそ、物語が整っていて、万人受けするものになっている。それが今の消費文化にマッチしているのだろう。


前回の記事で『鬼滅の刃』の作者は女性だと断定してしまったが、どうやら性別は明らかにされていないらしい。鱗滝先生が炭治郎の頭をなでるシーンなどに、女性らしさを感じたので、てっきりそうだと思っていた。この記事でも作者は女性と仮定して話を進める。

ネット上で、炭治郎の「俺は長男だから我慢できた」という台詞が話題になっていたことがある。これは女性作家らしい言葉だと感じた。たとえば、子供のころの遊びで、女の子はおままごとや人形遊びを好む。これらは役割を演じる遊びである。一方、男の子は冒険ごっこや秘密基地作りを好む。これらは役割の外に脱け出そうとする遊びである。

女性は役割どおりの行動をとることを好む。そうすると安心するからである。男性は役割を無視することを好む。そのほうが楽しいからである。

前回、ヴァンパイアの社会は静的で、ゾンビは動的だという話をしたが、女が好むのはヴァンパイアで、男が好むのはゾンビである。これも偏見だと言われるかもしれないが、歴史でいうと男は戦国時代を好み、女は平安時代を好む。戦国時代は社会が流動的で、身分が固定されていない。一方、平安時代は貴族的で、身分が固定されている。女性は役割を重視し、男性は役割を軽視する。そういう傾向があると思う。ゆえに、炭治郎の台詞は女性らしいと感じる。

私は、『鬼滅の刃』の理念のなさは、作者の性別が原因だと考える。この社会はこうあるべきだ、こうでなければならない、という理想を持つ人間は、現実の社会を否定せざるをえない。これは男性的である。一方、女性は現実の社会を肯定するので、社会から期待される役割を演じようとする。ここには理念がない。

理念とは現実を破壊するものであり、それはフィクションにおいては物語を不安定にする要素となる。作者の理念によって、物語が壊されてしまうのである。そうして古い物語が壊され、新しい物語が作られるという不断の創造によって、作品に生命が与えられる。私はそういうものが好きである。

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