キリスト教は外道か

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古代インドには、六師外道という六人の思想家たちがいた。彼らの主張は互いに異なっていたが、みな一つの問題意識を共有していたと考えられる。それは、既存の道徳への懐疑である。古代の共同体に根差した古い道徳が信用を失い、破壊されようとしていた時期に、これらの思想家が現れ、道徳の意義を問い直したのである。

おそらくここには、社会構造の変化が関係している。当時のインドでは、貨幣の流通によって経済が急速に発展し、既存の共同体の崩壊と、新しい社会の誕生が同時に起きつつあった。経済はつねに、異なった地域に住む人々を互いに結び付け、より大きな社会の形成を促す。

しかし、人々が生活を共にするためには、彼らを律するルール、つまり道徳が必要となる。何がよいことであり、何が悪いことなのか、何をやってよく、何をやってはいけないのか。そうしたことを共通認識として持っていなければ、秩序ある社会を築くことはできない。そこで、小さな共同体の道徳に代わる、新しい普遍的な道徳が求められていた。

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当時の自由思想家たちの中で、現代までその思想が生き続けているのは、六師の一人ニガンタ・ナータプッタのジャイナ教と、釈迦の仏教だけである。ただし、サンジャヤ・ベーラッティプッタの懐疑論は、仏教の中に影響を残していると考えることもできる。

それ以外の四者に共通する特徴は、道徳の否定である。善行や悪行には何の意味も報いもなく、人は、善を行うように心掛けるべきではない、と彼らは主張する。その主張を根拠づける論理は主に、決定論、唯物論、及び霊魂の独立である。

このなかで、唯物論は現代にもある。霊魂は存在せず、人は死ねば無に帰る、という考え方である。ゆえに、善悪の報いとしての地獄や天国は存在しないし、善悪の行いによって、現世で苦楽が得られるわけでもない、と説く。これは現代人の倫理観そのものである。

次に決定論は、カルヴァン派の教義を思い出してもらえば分かりやすい。人が救われるかどうかは、神の意志によってあらかじめ決定されているので、努力をしても無駄である、と彼らは説く。ここから、善悪の行為に報いはない、という結論に至る。古代インドには一神教のような神信仰は存在しなかったが、結論は同じである。

最後の霊魂の独立は、少し分かりにくい。これは、霊魂は実体として存在する、という考えに基づいている。霊魂そのものは他のものから独立して存在しているので、世界で何が起きようとも、それ自体に影響はない。よって、善悪の行いによって霊魂が影響を受けることはない。したがって、善を心掛ける必要もないし、悪を避ける必要もない、という結論に至る。

唯物論を主張したアジタ・ケーサカンバリの思想は、マルクスのそれと比較されうる。決定論を主張したマッカリ・ゴーサーラの思想は、カルヴァンのそれと比較されうる。そして、霊魂の独立を主張したパグダ・カッチャーヤナとプーラナ・カッサパの思想は、一般的なキリスト教と比較されうる。

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キリスト教における道徳の位置づけは、以上の外道と比べると少し特殊である。キリスト教においては、原罪の存在が主張される。人は生まれながらに罪を負っており、神の恩寵によってのみ、そこから解放されることができる。そして、神の一人子イエスが犠牲になったことで、人間の救済が約束されたのだ、という説である。

では、原罪とは何か。それは人間の始祖アダムが、神に背いたことによって得た罪であり、アダムの子孫である人類全体に及ぶものである。しかし、私はアダムではない。たとえ私の父が罪を犯したとしても、私が罪を犯したことにはならない。よって、アダムが犯した罪を、人類全体が負うことになった、という話は筋が通らない。

こう考えてみると、原罪という概念の本質が明らかになってくる。人間はみな、赤ん坊のころから原罪を負っている。赤ん坊はまだ何の罪も犯していないが、これから罪を犯す可能性がある。その可能性を原罪と呼ぶのである。そして、イエスの犠牲によって原罪が許されるということは、その赤ん坊がこれからどんな罪を犯そうとも、それはすでに許されている、ということを意味している。

つまりこれも、道徳否定の一種である。善悪の行いに果報はない。どれだけ悪を行おうと、神がそれを許しているのだから。これが、外道の一種として見たときのキリスト教の本質である。

だが、彼らの思想は、六師の一種に数えられうるほど洗練されているわけではない。論理的にあいまいで説明不足が多く、全体として意味不明であると言わざるをえない。

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では、釈迦の教えとは何か。それは諸悪莫作である。悪人は地獄に落ち、善人は人天に生まれる。人はみな、自らが作った業の報いから逃れることはできない。その道理をよく弁えて一心に修行に打ち込めば、悟りを得ることができる。

悟りは彼岸と言われる。真実には善も悪もないからである。ただ因果だけがある。悪業には苦果があり、善業には楽果がある。楽を受けて楽と思うのは人間の思いなしであり、苦を受けて苦と思うのも人間の思いなしである。善も悪も苦も楽も人の認識に過ぎない。

その道理が分かったならば、むやみに苦しみを追い求める理由もない。ニガンタ派は苦行を続けるが、苦を求めることで涅槃が得られるわけではない。自らを苦しめ続ける修行者たちは、地獄の衆生と同じように、正しい認識を失っている。

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