農業が格差を解消する

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格差の根源は農村の荒廃にある。人が生きるために必要なものは食である。その食が保証されないときに、人は貧しさを感じる。現代社会における最大の問題は、金がなければ食が得られないことであろう。

食品の輸入には、貨幣の価値を強調する効果があるといえる。自らの手で食を生み出すことができず、食を得るためには金によるしかないという状況が、人間を貧困の中に陥れる。貨幣が食事と等価とされたときに、真の意味での貨幣崇拝が始まる。

大嘗祭は、食を保証するための儀式である。人間の信仰は、食に対する信仰から始まっている。ゆえに、貨幣が食の代替物と考えられるならば、貨幣こそが信仰の対象となるだろう。

貧困の真の問題は、人間が貨幣に支配されているということである。そして、そのような状況が生まれるのは、貨幣の有無が人間の食を左右しているからに他ならない。人間の命を保つものは食である。その食が貨幣によって保証されるならば、貨幣こそが人間の命を左右するものになる。

このような状況を解消するためには、農村の再生が必要である。そのとき、農業生産物の価値を貨幣によって計ってはならない。そもそも農業には、人を貨幣から解放する力がある。なぜならそれは、貨幣によらずに食を生み出すからである。人間を生かすものは食であって貨幣ではない。そのことを確認するために、農業の復権が必要である。

格差や貧困を解決するために、経済成長は必要ない。富の再分配も所得の増大も必要ない。貧困とは飯が食えないことであり、飯が食えないことに対する不安が貧困である。これを解決するために所得を増やそうとすることは、あまりにも迂遠なやり方と言わねばならない。

貧困の解決とは、食に対する不安を解消することである。そのために、経済の考え方そのものを変えねばならない。経済の本質は、貨幣ではなく、食料である。食料がいかに生産され、いかに移動し、いかに分配されているか、ということが経済である。貨幣の運動はその副産物として現れるにすぎない。これが、新しい経済学の基本原理である。

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また、人口減少の問題についても一言しておきたい。たとえばトノサマバッタは、個体密度が低いときには普通のバッタだが、個体密度が高くなると群生相に変化し、大規模な群れで移動して農作物を食い荒らすようになる。生き物にはそれぞれ適切な個体密度があり、そこから逸脱すると、繁殖にも異常をきたす。

人間も同じである。都市の問題は人口密度が高すぎることであろう。人間は、周りに人が多すぎると、子供を産もうと思わなくなるのかもしれない。

人が多いということは、結婚相手も大勢いるということである。いま付き合っている人がいても、あっちの子のほうがいいかもしれない、などと目移りしているうちに年をとってしまい、子供の数が少なくなる。田舎にいれば、そもそも結婚できる相手が少ないので、まあこれでいいか、というふうにあっさり相手が決まり、結果として子供の数も多くなる。選択肢が多いということは、かえって決断を鈍らせるものである。

もちろん人口が増えることそのものは、必ずしもよいこととは限らない。私が従来述べているのは、人口の増加が環境破壊を悪化させるということであり、むしろ人類は人口の抑制に向かうべきである。しかし、その過程でどこかにしわ寄せが行ったり、貧困で苦しむ人が増えたりするのはよくない。人間らしい暮らしを保ちながら、人口を縮小させる方法を考えねばならない。

そのためにも、都市への一極集中を解消せねばならない。都市は食料を消費するだけで、全く生産しない。ゆえに、上記の理屈からいえば、都市において貨幣崇拝が最も高まるはずであり、格差の問題が深刻化するのも都市においてである。そして、都市を基準とした国家運営が、その弊害を全国隅々にまで行き渡らせてしまう。

貨幣よりも食料のほうが尊い。なぜならば、貨幣は食べられないからである。本当に価値があるのは食べられるものであり、食べられるものと交換可能なものは、より小さな価値しか持たない。我々の経済学は、食料を基礎としなければならない。


貨幣の問題については「マルクスについて」「貨幣によらない経済学」も参照されたい。また、人口問題と環境問題および自由主義の関係については「記事紹介6:新しい封建制へ向けて」にまとめられている。

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