西洋文明について

1 無知と怠惰

西洋文明の特徴は、レイシズムと、道徳的無気力です。

前者はユダヤ教に由来すると思われます。たとえばナチズムは、ユダヤ的な選民思想の裏返しにすぎません。

後者はキリスト教から受け継がれたものです。

キリスト教は、道徳の問題を個人の内面に閉じ込めてしまいました。その人の心が清らかであれば、彼はよい人間なのであって、それを行動によって表現する必要はありません。道徳とは、個人の心の中だけにあるものであり、現実の世界とは関係を持たないのです。

キリスト教に由来するこのような考え方が、現在のヨーロッパに広く行き渡っている、道徳的怠惰の原因であると考えられます。彼らにとっては、よい人間であるために、道徳的な振る舞いをする必要はないのです。

2 堕落する文明

肯定的な面に目を向けましょう。自然科学の発達は、西洋文明によって成し遂げられた偉大な成果の一つです。自然科学は因果律を重んじ、現実を見つめることを我々に促します。それはキリスト教とは逆に、我々の視線を外へと向けさせるのです。

しかし同時に、自然科学の成果を矮小化しようとする試みも、西洋文明の内部において、しばしば現われています。たとえばある人々は、ニュートンの運動法則は単なる仮説にすぎず、普遍性を持ちえない、と主張しています。しかし、ニュートンの法則に反するいかなる現象も自然の中に見出すことはできませんし、それに反する現象を想像することすら、我々にはできません。

科学的法則の絶対性を否定するこれらの人々は、あたかも、人間の恣意的な考えによって、自然を変えることができると信じているかのようです。実際には、個人の考えは現実とは無関係であるにもかかわらず。ニュートンの法則に普遍性はない、と考える人がいたとしても、依然として、あらゆる事象はその法則どおりに運行しているのです。彼らは現実を受け入れることを拒絶し、自分の心の中に閉じこもろうとしています。

自然科学はいまだに、様々なドグマによって歪められ、貶められています。このような傾向は、西洋文明そのものに内在するものであると考えねばなりません。それは明らかに、知性の退化へ向かっています。

誤解されることが多いのですが、ドイツを代表する哲学者カントの思想は、このような傾向への抵抗として理解することができます。彼は、因果律の絶対性を認めていました。これはヨーロッパの一般的な思想家には見られない、際立った特徴です。しかし彼の努力も、西洋文明を変えることはできませんでした。言うまでもありませんが、このような知的退廃の原因も、キリスト教に求めることができます。カントも結局は、キリスト教の引力圏から逃れられなかったのです。

キリスト教は、人々に内面的な自由を保証します。しかしそれは、何の犠牲もなしに達成できるものではありません。

それは、人々に無知を強います。ひとたび無知に陥った人々は、もはや、自分の無知を知ることすらできなくなります。それはまるで、地獄の衆生が、自らが地獄にいることを認識できないのと同様です。

3 地獄

西洋人の唱える自由や人権、民主主義といった美しい言葉の数々は、彼らが今までに行ってきた侵略行為を隠すための、いつわりにすぎません。彼らが考える進歩的な国家とは、正当な理由もなく他国に爆弾を落とし、それが原因となって生じた難民を海に突き落とし、見殺しにするような国家です。

日本では、そのような振る舞いをする者を、ならず者、あるいは鬼畜と呼びます。



付論1 運動法則の必然性について

ニュートンの運動法則の必然性について、考えてみましょう。運動の第三法則は、作用と等しい大きさの反作用が存在する、という法則です。

もしも、作用に対して反作用が存在しなかったとしたら、様々な不合理が帰結します。たとえば、船に乗って、オールで水を漕ぐときに、オールが水をすり抜けてしまうことになるでしょう。そして、船は少しも前に進まない、ということになります。なぜなら、船が前に進むのは、オールが水を押すのと同じだけの力が、オールに作用するからです。水からオールに加えられる反作用が、船の推進力になっています。

運動法則とは、オールを漕げば船が進む、という事実を、別の言葉で表現しただけのものです。我々には、それを否定する権利はありません。

たとえば、あなたが乗っていた客船が沈没してしまい、あなたは救命ボートで逃げ出したとしましょう。遠くに陸地が見え、しかもボートの中にはオールが備え付けられているのに、それでもあなたは船を漕がなかったとしましょう。なぜかと言えば、作用反作用の法則が信じられないからなのです。

このような人間だけに、運動法則を否定する権利があります。しかし彼は、同じ理由から、歩くこともできず、食事を摂ることもできないので、すでに生きてはいないはずです。

科学法則の必然性は、このように理解されるべきです。それを否定することは、単に不合理なのです。

付論2 運動法則と因果律

運動法則と因果律の関係を明らかにするためには、詳しい考察が必要になると思います。

因果律が意味することは、原因と結果の間に一対一の対応が存在する、ということです。つまり、他の条件が同じならば、同じ原因から同じ結果が生じるということです。

よって、同一の原因から二つ以上の異なる結果が可能である場合、因果律は破れていると言えます。おそらく、因果律のこの性質から、運動法則を導くことができると思われます。

たとえば、作用と反作用の大きさが不等である場合、どちらが作用で、どちらが反作用であるか、という恣意的な選択によって、結果が二通りに分かれるでしょう。この場合、因果律は破れていると言えます。ゆえに、因果律が成り立っているならば、作用は反作用に等しくなければなりません。

因果律は運動法則の十分条件になっているはずです。興味のある方は、証明を考えてみてください。

この世界には、複雑なものなど何一つありません。あらゆる出来事の裏には、一種の単純性が潜んでいます。仏教ではそれを、一因一果の因果律と呼んでいます。

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