粒子によらない物理学

 古典的な物理学は、物質の存在を前提としている。ニュートン力学における質点や、統計力学における原子はその典型である。
 ある粒子に働く力と、その粒子の位置の変化、あるいは速度の変化を記述すること、それが力学である。しかし物理を記述するために、本当にそのような情報が必要だろうか。
 物理学が記述すべきは現象である。現象とは、二つ以上の物質の相互作用である。だが、現象を基準に考えるならば、現象を可能にする条件として、物質を定義することもできるのではないか。
 現象の中でその姿を現すものが物質であって、現象なしには、物質は存在しえない。物質の存在によって現象が可能になるのではなく、現象によって物質が存在するようになるのではないか。あるいは、現象を通して、我々は物質を認識できるようになる、と言ってもよい。どちらでも同じことである。なぜならば、我々に認識できない物質の存在を仮定することに、意味はないからである。

 ハミルトン方程式で記述されるのは粒子の軌道である。その記述は、粒子が同定可能であることを前提としている。古典的な力学の記述においては、それぞれの粒子の軌道を追跡するという形で、物理学が記述される。
 しかし、我々が観測していない瞬間にも、その粒子が存在するという仮定にどれだけ合理性があると言えるのか。むしろその系が観測される時点を基準にして、系を記述するべきであろう。
 量子力学においても系の時間的な発展ということが問題にされるが、それはナンセンスである。そうではなく、観測された時点を基準として、その系における時間が定義されるべきである。

 量子力学は、それが記述する対象の実在を暗に仮定している。それが問題なのである。観測されない系の実在については、議論が可能であると考えるべきではない。というより、何かが実在するという考え自体を捨てるべきである。
 このような観点からすれば、慣性の法則は無意味である。それは何ものをも意味しない。慣性の法則は、現象が起きない場合の物質の状態を記述する法則であるが、そのような状況においては、物質の状態を議論すること自体が不可能である。

 私が追求したいのは、因果律による物理現象の記述である。粒子による記述は、現実の一側面しか切り取ることができない。
 たとえば、蛍光灯から放出された光が、机の表面で反射され、それが私の網膜細胞を刺激し、私の脳内で神経活動を生じさせたとしよう。これは明らかにひとつながりの現象であるが、粒子に注目する記述では、これを一つの現象として理解することは難しい。
 蛍光灯から放出された光量子が、机の電磁場と相互作用し、新しい光量子が放出され、それがヒトの視細胞に吸収されて、細胞膜における静電作用が生じる。これをどうやってハミルトン方程式で表現すればよいのか。
 リウヴィルの定理においては、蛍光灯を構成する粒子群と、机を構成する粒子群と、人の神経系を構成する粒子群は、それぞれ別のものとして記述され、それらの間の相互作用を記述する関数が、方程式の中に組み込まれる。

 なぜ、こんなにややこしいことをしなければならないのか。
 原因は、我々が粒子を追跡しようとしたことである。一つ一つの粒子に注目し、その挙動を追うことで現実世界を表現できる、と考えたために、これほどややこしい計算をしなければならなくなってしまった。
 だが、粒子が存在しないのであれば、このような計算自体がナンセンスである。
 蛍光灯の状態に応じて、机の状態が変化し、机の状態に応じて、神経系の状態が変化する。その変化の過程そのものを追えば済む話ではないか。
 この場合、時間を記述する必要はない。それぞれの系における時間発展を記述する必要はあるが、全体系の時間発展を統一的に記述する必要はない。時間の存在は虚構に過ぎない。それは、計算のために仮に必要とされる一種の変数だと考えるべきである。

(マッハとカント 終)

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