壬申の乱

岡田英弘によれば、日本書紀は壬申の乱を下敷きにしている。

天智天皇が病に臥せたとき、大海人皇子は、大友皇子を後継者として推薦し、自らは吉野に隠棲した。しかし、天智天皇が死去すると、大海人皇子は単身吉野を出立し、兵を挙げた。吉野を出たときには皇子と護衛のみで、全く兵を引き連れていなかったにもかかわらず、不破の関に着くころには、数千の軍勢を率いていた。それだけの兵隊をどこから調達したのかといえば、吉野から不破に至るまでの道中で、土地の豪族たちから兵を募ったわけである。


では、吉野から不破に行くまでにどんな土地を通ったかといえば、まず、奈良の山中から伊賀を通って三重県の平野部、伊勢湾沿岸に出る。そこには伊勢神宮がある。そこから北上すると名古屋の平野部に出る。そこには熱田神宮がある。そこから北に行けば美濃に出て、不破の関に至る。このように、皇室にとって重要な神社である伊勢と熱田をなぞる形で、大海人皇子は進んでいったのである。

その後、壬申の乱に勝利し天皇となった皇子は、日本書紀の編纂を命じた。その中で、伊勢と熱田は重要な役割を与えられ、皇室に縁の深い神社として、権威を獲得することになった。これは、壬申の乱で功績があった豪族に対する恩賞、と考えることもできる。つまり、大海人皇子に兵を貸し与えた豪族たちが信仰していた、伊勢や熱田の神々を皇室の系譜に組み入れることで、一方ではその功績をたたえ、他方では彼らを懐柔しようとしたのではないか。このように日本書紀には、壬申の乱の論功行賞、という目的があったと考えられるのである。

さらに、壬申の乱にはもう一つの局面があった。大海人皇子が不破の関から近江に攻め込むのと同時に、大和でも兵を集め、そこから北上して近江宮を突く、という二正面作戦を展開していたのである。そこで重要な役割を果たしたのが、神武天皇であった。

どういうことかというと、この戦いの最中に、イワレビコの霊がシャーマンに憑依して、宣託を下したのである。苦戦していた大和の軍は、そののち美濃からの援軍を得て勝利を収めた。御神託どおりに戦争に勝つことができたので、戦後イワレビコは皇祖神として祭られ、神武天皇という名前が与えられることとなった。

イワレビコがもともとどういう神様だったのかは分からない。おそらく大和の土地神であろう。つまり神武天皇は、壬申の乱の最中に誕生した神様である。


このように、壬申の乱と関連付けて考えることで、日本書紀とそこに記された神話に、ひとつの解釈を与えることができる。日本書紀の神話がすべて作られたものだとは言えないが、作為が全くなかったとも言えないのではないか。

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