文学とアニメーション

日本の文学の特徴は、移ろいゆく自然を、移ろいゆくままに表現することであろう。俳句にも和歌にも、そのような特徴がある。そして、その起源は荘子にあると私は思う。

たとえば『荘子』の中に、どんどん体が曲がってゆく人の話がある。毎日毎日、体がねじ曲がってゆき、日常生活も難しくなるのだが、本人は全く気にしていない。それを悲しみもせず、つらいとも思わず、苦とも思わない。あるゆるものは、ほんの瞬きをするほどの間であっても、絶え間なく変化し続けている。それが造物主のはたらきであるのだから、不思議に思う必要はないし、悲しむ必要もない。ただ、変化するものの変化するさまを、じっと見つめている。そのような視点が、荘子にはある。

そのように、ものの変化をそのままに捉えるということ、それが日本の芸術の型になっている。現代においてその伝統を受け継いでいるのは、アニメーションであろう。アニメーションはまさに、ものの変化するありさまを、そのままに表現するための手法である。純粋な芸術と言ってもよいと思う。


日本にはそのような芸術の伝統があり、その上にアニメーションの文化が根付いている。しかし、アメリカにはそれがない。アメリカ製のアニメは、どちらかといえば観念的である。そこには、自然を写し取ろうとする意欲がない。

たとえばCGアニメーションという手法は、非常にアメリカ的である。まず、3Dのモデルをコンピュータ上で作って、そのあとで、そのモデルに動きを与える。つまり、先に静止画を描き、そのあとで、それに動きを与えるのである。

しかし、おそらく手描きのアニメーションは順番が逆である。私はアニメーションを作らないので、これは想像でしかないのだが、まず動きがあり、そのあとで静止画ができるのではないか。つまり、動きに合わせて、絵ができるのではないだろうか。そのようにすると、自然を写し取ることができる。自然とは、静止するものではなく、動くものである。動きから捉えないと、自然を捕まえることはできない。

日本にCGアニメーション制作が根付かないのは、そのあたりに原因があるのではないか。日本のアニメ文化を3D化するには、まず、それを製作するソフトウェアを新しく作らないといけないだろう。動きを先に描き、静止画を後から描けるような、CGアニメの制作ソフトである。

そんなものはできっこないかもしれないが、CGアニメーションを芸術に昇華するためには、そういうものが必要だと思う。そのためには、ソフトウェアの設計から見直すべきであろう。

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