人間平等論批判

1

 主張…男女は平等ではない。なぜならば、男は賢く、女は馬鹿だから。

 反論…男女は平等である。女も男と同じくらい賢い。

反論者が女である場合、彼女は「私は馬鹿ではない」と主張することはできない。その場合、反論者が証明すべき結論を前提としていることになり、論点先取の誤りを犯していることになるからである。同様に、「男女は平等である」ということを議論の前提にすることもできない。この場合も論点先取になるからである。

これらの指摘によって、男女平等論者はあらかた論破できるはずである。


男女平等論は、男女は本来平等である、ということを議論の根拠にしている。それが社会制度の誤りによって実現されていないので、それを実現するために社会制度を変えるべきだ、というのが彼らの主張である。よって我々は、「男女は平等ではない」と主張すればよいことになる。この場合、平等論者は論点先取を回避できない。男女が平等ではないことの証拠はいくらでもあるが、男女が平等であることの証拠は、ただの思い込み以外には存在しないからである。

男女平等論が議論として成立するのは、議論に参加する者が全員、自由意志の存在を信じている場合に限られる。つまり、あらかじめ人間の平等が承認されていなければ、それはそもそも、まともな主張として受け入れられないのである。もちろん我々は、正面から「人間は平等ではない」と主張するべきではない。それは非難の対象となるからである。

男女平等論の本質は、身体的特徴の軽視である。人間の本質は肉体ではなく、肉体から遊離した魂こそが人間の本質である、という信仰が男女平等論の根源である。そうした魂の存在を認めれば、それ自体は肉体とは無関係なので、二人の人間の間にどれだけ身体的な相違があっても、両者が本質的には同一の存在であることが保証される。

キリスト教ではそれを魂と言うが、近代的な合理主義の文脈では、それを自由意志と呼ぶ。しかし、両者は本質的に同じものであり、肉体の影響を受けない人間の精神が存在する、ということを意味している。つまり有我論である。これを論破する方法は、仏典を探せばいくらでも出てくる。

2

言葉にはそれぞれ意味がある。男という言葉には男という意味があり、女という言葉には女という意味がある。女とは子供を産む人間のことであり、男とは子供を産まない人間のことである。これら言葉の意味から推論できる一般的な性質というものがあり、政治においてはそれらの性質が重要となる。個々の人間がどのような性質を持ち、どのような選択をするかということと、人間の一般的な性質は区別しなければならない。


女は自分で子供を産むので、それが自分の血縁であることを知っている。一方で男には、自分の子供が本当に自分の血縁であるのかどうか、知る手段がない。そのため一般的に言って、女の方が血縁に対する執着が強い。男は初めから諦めているので、あまり血縁に執着しない。

女親は、よその子供を押しのけてでも、自分の子供を守ろうとする。それが自分のものだと思うから、子供に執着するのである。一方で男親は、よその子供と自分の子供を平等に扱おうとする。結局のところ、どちらも他人に過ぎないからである。そのため男親は、よその子供のために、自分の子供に我慢をさせようとする。

女は愛によって子供を育てるが、男は平等によって子供を育てる。ゆえに、子供の社会性にとって重要なのは、男親の方である。なぜならば、人間の社会性とは、自分のことだけでなく、他人のことも考えられるということだからである。女親のみによって育てられた子供は、我が強くなり、社会性を失う。子供の教育に愛は不要である。


もちろん乳幼児には母親の保護が必要であり、この段階では愛情が役に立つ。乳が出るのは女だけなのだから、子供の養育は女がやればよいと思うのだが、子育てよりも賃労働の方が大事だ、と思う者が多いようである。妊娠出産と賃労働を両立させるのは大変だと思うが、彼女たちがそれを望むのであれば、好きにさせるしかないだろう。

しかし、子供を産むことは女の義務である。なぜならば、すべての女が子供を産まなくなれば、その一代限りで人間の社会は消滅するからである。ゆえに、社会を存続させるためには、女が子供を産む必要がある。これはどんな馬鹿でも分かる道理である。

人口構成の崩壊は、社会に甚大な影響をもたらす。社会の秩序と安定によって、個人の幸福が保証されるのだとすれば、男女平等論者は、自らの我を通すことによって、自らの幸福を奪っていることになる。これを馬鹿と言わずして何と言えばよいのか。人間の自由とは金を稼ぐことではない。経済的自立は自由とは何の関係もない。


人種が異なる者同士であっても、文化や言語が違っても、互いに分かり合うことはできる。しかし、男と女が理解し合うことは不可能である。人間の男と女よりも、人間の男とチンパンジーのオスのほうが分かり合えるだろう。

3

仏教では人間の心身を名色と呼ぶ。名称と形態、という意味である。形態が身体を指し、名称が心を指す。つまり、心とは名前だけのものである。それは目に見えず、存在するという証拠もないが、それを名指すことは確かにできるし、それぞれの心の要素を、名前によって区別することもできる。それが名前だけと言われる理由である。

心が存在する、と考える者は心身二元論の立場を取る。心は存在しない、と考える者は心身一元論の立場を取る。しかし実際には、それが存在することを証明することもできないし、存在しないことを証明することもできない。ゆえに、どちらの立場も誤りである。存在に関する判断を下さずとも、この世界を正確に理解することは可能である。むしろそうすることによって、物事に対する正しい理解が阻害されてしまうのである。

4

彼が意識は存在すると主張するならば、我は意識は存在しないと主張すればよい。意識というものが認識を可能にするものであるならば、意識の存在を認識することは、誰にもできない道理である。では、誰も見たことのないものがどうして存在すると言えるのか。

意識の存在を示す証拠は原理的に存在しえない。ゆえに、それが存在すると言うことはできない。しかしそれならば、我々の主張も成立しないのではないかといえば、そのとおりである。だが、彼の主張が成立しないことも明らかである。我々は一切の主張を持たない。ただ有我論を論破するために、仮に主張を立てるだけである。


そもそも意識が我々の心を司っているのかといえば、そうではない。自分の心を自分で制御することは、誰にもできないからである。たとえば、あなたが悲しみを感じたいと思ったときに、あなたは悲しむのだろうか。

そうではなく、悲しみは自然に湧き起こるのではないか。あなたが怒りを感じたいと思ったときに、あなたは怒るのだろうか。そう思わなくても、怒りは自然に生じるはずである。そして、怒りたくないと思ったとしても怒りは消えないし、悲しみたくないと思ったとしても悲しみは消えない。

つまり、あなたの意識は、あなたの心を全く制御できないのである。それなのに、どうして意識が存在すると考えなければならないのか。いったいそれは何であり、何のために存在するのか。それはただ、誤って存在すると仮定されただけではないのか。実際には意識の存在を仮定しなくとも、人間の精神を理解することはできるのではないか。


意識の存在は迷信である。それは我執の現れにすぎない。自己に対する執着が、「意識が存在する」という想念となって現れているのである。ゆえに、意識の存在に立脚する近代合理主義もすべて迷信である。それは煩悩の作り出した幻にすぎない。智慧の鏡に映し出されたならば、跡形もなく消え去るだろう。

<参考>
男女平等とは何か
捕鯨について
リベラルと保守

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