大清国について

 大清国は伝統的な中国王朝の一つに過ぎなかった、というのは、中華主義を宣伝しようとする中国人の屁理屈である。
 たしかに、清代の中国でも科挙は行われていた。しかし、それによって役人に採用された漢人が関与できたのは、中国の政治だけであった。彼らは、大清国全体の政治に与れたわけではない。つまり、清国そのものの統治機構からは、漢人は排除されていたのである。このことから、清代の中国は満洲人の植民地に過ぎなかった、という見方が成り立つ。

 一部の中国人は、満洲皇帝でさえも中華主義を受け入れたのだから、中華思想の普遍性は明らかなのだ、と主張する。無論、そういう理屈も成り立つ。だが、実際に漢人を支配していたのは誰だったのか、ということはまた別の問題である。大清皇帝は、漢人を懐柔するために、彼らの思想を上手く利用したのだ、という見方も成り立つはずである。
 つまり、大清皇帝は中華思想など全く信じていなかったが、中国人に対しては、そう見えるように振る舞っていただけだ、という可能性もある。この場合、本当に普遍性を持っていたのは、中華思想ではなく、満洲人の統治理念だった、ということになるだろう。そうすると結局、中華思想というものは、限られた地域でのみ通用するローカルな理念にすぎないのであって、満洲人の政治理念こそが、普遍思想と呼ばれるにふさわしいものだったことになる。

 だが、ここで難しいのは、満洲人自身が、彼らの思想のようなものを全く語らなかったことである。そのために、満洲人が、漢人の思想を無批判に受け入れてしまったかのような印象が生まれてしまう。さらに清朝の末期になると、漢満一家の政策がすすめられ、清国の中枢にまで漢人が進出するようになる。そうなると、ますます漢人と満洲人の思想が区別できなくなってしまう。
 しかし、やはり初めのうちは、満洲人と漢人の間には厳密な区別があったのだから、満洲人が、その統治の初期から漢人の思想を受け入れていたとは考えにくい。また、太平天国が掲げた「滅満興漢」のスローガンからも分かるように、清代を通して常に、漢人と満洲人は別の存在であると認識されていた。
 というのも、もしも、満洲人が中華思想を受け入れ、彼ら自身が漢人と同化していたのだとすれば、「滅満興漢」というスローガンは意味をなさないはずである。ゆえに、満洲人と漢人は、それぞれ別の政治理念を持つ別の民族であった、と結論できる。

 満洲人が、どのような政治理念によって帝国を統治していたのか、ということを言語化することはできないかもしれない。しかし彼らが、中華思想とは異なった理想に基づいて帝国を運営していた、と考えることはやはり可能である。その場合、大清国を単なる中華王朝の一つと考えることは、もはや適切とは言えないだろう。
 現在の共産中国の統治を正当化するロジックの一つは、清朝が伝統的な中国王朝であった、という考えに基づいている。そうすると、清朝の後継国家である共産中国は、清朝の版図を受け継ぐべきである、という理屈になる。だが、その議論の前提は非常に怪しいものである。中華思想の普遍性なるものは、漢人の作り話に過ぎないのではないか。
 中国は、アジアで最も普遍に乗り遅れた地域である。真の普遍は仏法以外に存在しない。

タイトルとURLをコピーしました