歴史と言葉

1

 歴史書に書かれていることは、基本的に真実だと考えるべきである。もちろん、複数の歴史書の記述が食い違っていたり、あるいは歴史書の記述が考古学的な資料と矛盾していたならば、真偽を疑うべき根拠となりうる。しかしそういう証拠がない場合には、むやみに書物を疑うべきではない。
 本当のことを書き残したい、という気持ちは切実なものである。自分が死んでしまったら、これを知る人は誰もいなくなってしまうかもしれない。そう思うと、真実を書かざるをえなくなる。歴史を記述する人間が、あえて嘘をつくということは、よほどの覚悟が必要なことである。
 もちろん、そのような例が全くないとは言えない。しかし、それを疑うべき理由がないならば、歴史書の記述は信じなければならない。

 ただし、中国の歴史は別である。ナショナリズムでも何でもなく、日本の歴史書は信用すべきだが、中国の歴史書は信用してはならない。日本の歴史が無味乾燥でつまらないのは、事実をそのまま記しているからである。中国の歴史が面白いのは、事実を脚色して物語にしているからである。


 日本における歴史の改ざんは、とくに古代史に顕著である。日本書紀の記述が信用できないものであることは、よく知られている。しかし、この時代に関しては、他に資料が乏しいので、本当のことを知ることは永遠にできないだろう。
 日本書紀は故意に真実を隠している。そこに、それだけの対価を払うべき何かがあったのかどうか、我々は推測するしかない。

2

 文字に対する感覚は、民族性が顕著に出るところである。
 最近のいくつかのニュースによって、日本政府の、公文書に対する誠意のなさはよく知られることとなった。だが、それもある程度は国民性かもしれない。
 日本人は、個人の利害に敏感である。とくに、自分以外の人間の利害を非常に気にする。たとえば、ここでこの文書を破棄しなければ、組織の他の人間に迷惑がかかるかもしれない、と判断すると、躊躇なく文書を捨てる。太平洋戦争終結時に大量の文書が破棄されたことも、その一例である。
 一方で、特にキリスト教圏の人々は、できるだけ文書を残そうとする。彼らは言葉というものに、個人の利害を超越した価値を見出しているのである。そのため、それを残しておくと他の人の不利になる、ということが分かっている場合でも、わざと文書を残す。そのように他人の迷惑を考えないということは、個人の利益を超越した価値に従うことによって、はじめて可能になる。そこでは人間よりも、言葉の方に価値があると考えられている。

 ここで、近代国家の背後にあるのが、神と人間との契約を、国家と人間との契約に置き換えた社会契約説である、ということが思い出されるべきである。公文書は神との契約を疑似的に表現したものなので、それを破棄することはタブー視される。ヨハネによれば、言葉は神である。
 ここに、日本政府と欧米の政府の違いがある。日本にはキリスト教という背景がないので、欧米的な近代国家は成立しえない。日本においては、言葉よりも個人の利益が尊重される。欧米はその逆である。

 では、日本政府による公文書の改ざんや破棄は、仕方がないことなのか。
 そうではない。問題は、日本人ひとり一人の責任感と正義感の欠如である。それを法律でいくら是正しようとしても、いたちごっこにしかならない。人間は常に、言葉よりも先にある。人間が法律を作るのであって、法律が人間を作るのではない。
 必要なことは自省である。己の精神を反省することである。また教育である。日本人は座禅をしなければならない。

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