男女平等とは何か

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女性の社会参画とか、女性の権利向上とか、ずいぶん昔から言われているが、まだ不十分であるらしい。さらに少子化という問題もあるが、これは明らかに女性の地位向上と関係している。

最近では、女性が社会に出て働くのは当たり前で、夫婦が共働きという家庭も増えているようである。しかし、共働きで子供を育てようと思ったら、家で子供を育てるわけにはいかない。それで、子供は保育所に預けることになる。だが、日本では保育所の数が足りず、保育所を見つけるだけでひと仕事になる。かといって、親のどちらかが家にいて、子供を育てるということも難しい。なぜなら、両親共働きでないと、収入が足りず、子供を養うことができないからである。そのため、保育所の数を増やすことが、社会的な課題になっている。

しかし、保育所で働いている保育士も、人間である。人間なので、結婚して子供を作る。では、保育所で働いている保育士は、自分の子供をどうやって育てればよいのだろうか。その子供を、別の保育所に預ければよいのだろうか。そうすると、その別の保育所で働いている保育士は、自分の子供をさらに別の保育所に預けなければならなくなるだろう。そうすると結局、無限の数の保育所が必要になるだろう。しかし、近代国家の強大な力をもってしても、無限個の保育所を開設することはできない。したがって、待機児童の問題は解決不可能であることになる。では、どうすればよいのだろうか。この問題に答えはあるのだろうか。

答えは簡単で、自分の子供は自分で育てればよいのである。そうすれば、待機児童の問題はそもそも生じない。それが可能になるように、社会制度を設計しなおすべきである。女は家で子供を育てていればよい。それが本当の男女平等であろう。

お金を稼ぐことが自分の価値だと考える人間は、お金の奴隷である。社会から評価されることが自分の価値だと考える人間は、社会の奴隷である。いったい自由な人間など、この世界のどこに存在するだろうか。男女が平等に奴隷であるならば、それで十分ではないか。

2

家庭内で行われていた育児サービスが、保育所に外注されるようになると、保育士の給料の分だけGDPは増える。しかし、家事を外注してGDPを水増しすることに、どんな意味があるのだろうか。

自分でやっていた仕事を他人に任せるとなると、その分だけ手間が増え、余計な責任問題も発生する。つまり、仕事を外注することで、社会全体の効率が悪くなると考えられる。しかし同時に、自分でやっていた仕事を他人に任せると、金銭の授受が生じるので、その分だけGDPは増えることになる。

結局、現代においては、GDPを増やせば増やすほど、社会は非効率化され、生きづらいものになってしまう。我々はむしろ、GDPを減らす努力をするべきではないか。それが社会の効率化につながり、結果として、それぞれの個人にとって生きやすい社会が実現できるだろう。GDPは、社会の豊かさの指標ではなく、無駄の多さの指標だと考えるべきではないか。

GDPの水増しということが、大きな社会問題になっているように思われる。このことに誰も気づいていないのだろうか。

3

たとえば、男ではなく、女が母乳で赤ん坊を育てるならば、粉ミルク代が浮く。もちろん、それ自体は大したことではない。だが、人間が自分でできることを、他のものにやらせることに、どんな意味があるのだろうか。

むやみに自然に逆らうと、その分だけ余計な手間がかかり、無駄が多くなる。無駄が多くなると、生活に余裕がなくなる。それが人間の幸福につながるだろうか。むしろ、自然に従い、自然を上手く利用するほうが、効率のよい生活が送れるのではないか。そのほうが幸せではないだろうか。人間にとって最も身近な自然は、自分の身体である。自分の身体を、もっと活用するべきだと思う。

魂の存在を信じている人には、肉体が自分のものだという感覚が薄いようである。人間そのものは、肉体とは別に存在する幽霊のようなものである、と考える人にとって、肉体は邪魔なもの、余計なものののように感じられる。

しかし、そのように思考することができるのは、頭があるおかげである。つまり、思考は肉体的な作用である。肉体とは別に精神なるものが存在し、それが思考を行っているという考えは、非科学的である。頭であれ足であれ、使えるものは使えばよい。それが合理的な思考である。頭を使うのはよいが、足を使うのは嫌だというのは、不合理な思考である。

女は子供を産み、育てるべきである。それが自然である。しかし、それが嫌ならば、無理にやる必要はない。別にそれでも構わないと思う。

4

人は、お金を食べて生きているわけではない。ご飯を食べて生きているのである。服を着て生きているのである。つまり、金がなくても、モノがあれば生きてゆける。金がないくらいで、うろたえる必要はない。

最近の日本人は、金がないだけで大騒ぎする。みっともない限りである。日本はものづくり国家なのだから、ものは十分にある。今はフェイスブックとかグーグルとかが大儲けしているらしいが、あれは虚業である。あんなふうにお金だけ儲けても、大した意味はない。

だいたい数字というのは人を騙すためにあるのだから、数字にこだわってはいけない。売り上げの額面だけに踊らされずに、仕事の中身を追求してゆけばよい。我々の生活を支えているのは、お金ではなく、一人ひとりの人間の仕事である。

5

最近の世間は、自立自立とやかましい。引きこもりが良くないのは、自立していないからだと言う。しかし、そもそも自立した人間など存在しない。

いまは、自分でお金を稼いで生きている人を、自立していると言うようである。しかし、彼らにしても、自分でお金を作っているわけではない。そんなことをしたら犯罪になってしまう。だから、自分でお金を稼いで生きる人とは、他人からお金をもらって生きる人である。

サラリーマンは会社からお金をもらっているし、その会社は取引先からお金をもらっている。お金をくれる人がいなければ、だれも生活できない。みな、他人に依存して生きているのである。

そもそも、自分が生きていくために必要なものを、すべて自分で作ろうとすれば、ものすごく手間がかかる。住む家にしろ、食べるものにしろ、着るものにしろ、それぞれのものを別々の人間が作り、それをお互いに融通し合っているから、豊かな生活が送れる。完全に自立した生活とは、ただの貧困である。他人に依存しているから、豊かな生活が送れる。

それが経済ということである。経済とは、経世済民ということであり、人の暮らしを豊かにするということである。それは簡単に言えば、生活に必要なものを、お互いに融通し合うということである。ゆえに、基本的には、経済とお金は無関係である。

たとえば、政府が紙幣を増刷するというのは、将来入るはずの収入を前借りするようなもので、そういうことを始めると、話がややこしくなる。本来ならば、そういった金融の技術が必要になるのは、戦争の時だけだろう。今は四六時中戦争をしているようなもので、経済そのものが異常である。

6

正直に言えば、女性の社会進出はあまり歓迎すべき事態ではない。男と女にはそれぞれ別の性質があって、感情の働き方も違えば、注意の方向や思考のタイプも違う。

一般的に言って、女は責任感が薄い。自分さえ良ければそれでいいと思っている。そのため社会性がなく、秩序ある社会を築くことが難しい。だから、社会的な責任のある仕事を、女に任せるべきではない。

女性は、自分と、自分の周囲の人間への気遣いは優れている。しかし、自分と無関係に見える事柄に対する関心は、驚くほど低い。女性の気が届く範囲は、男性よりもずっと狭いのである。それが女性の社会性を損なっている。秩序ある社会の構築は、男の仕事であって、女の仕事ではない。

我々は、男女は平等であるべきだ、という願望と、男女は不平等である、という事実とを、混同すべきではない。男女の違いは自然の性質であり、それは、人間にどうこうできるものではない。女には女に向いた仕事があるが、女に向かない仕事もある。そういう仕事を女に任せることは、社会全体の不利益になる。伝統的な社会の中で男女の役割分担が行われてきたのは、理由がないことではない。

欧米人は混乱と堕落を好むが、日本人は秩序と勤勉を好む。そういった社会の違いが根本にあるので、欧米のような女性の社会進出を、安易に認めるべきではない。あらゆる人間を平等に扱うことは、かえって差別を助長するだろう。

ここで、以上の議論に根拠はあるのか、と疑問に思う人もいるかもしれない。根拠は、我々の身の回りにいくらでもある。冷静に社会を観察してみれば、私の意見の正しさが理解できるだろう。

7

男女平等は奴隷階級を必要とする。日常の雑務を代わりにやってくれる奴隷が存在しなければ、男女平等は成り立たない。

アメリカには黒人やヒスパニックがいる。ヨーロッパには移民がいる。それらの人々を奴隷として扱うことなしに、男女平等はありえない。

男女平等は必ず階級社会を生む。それは、本来の平等思想とはかけ離れた、単なるエゴイズムに過ぎない。植民地人は二十世紀における奴隷階級であった。ヨーロッパ文明は奴隷の文明である。彼らの自由は、常に奴隷制に支えられている。

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