伝統とは何か

1

伝統というものがどこかにある、と考える人がいるようだ。日本の伝統だとか和食の伝統だとか、ありとあらゆるものに伝統を見つけないと、気がすまない人々がいる。

これも一種の二元論である。伝統を求める人々は、自分は伝統の中にいない、と考えている。自分は新しい人間であって、古い人間とは断絶している、と思い込んでいる。そうして世界全体を新しいものと古いものの二つに分けたあとで、両者の特徴を事細かに調べ上げ、その違いを比べて満足を得るわけである。

何の意味があるのだろうか。

新しい人間などいるはずがない。ただ、自分は古い人間だ、ということに気付いていない人間がいるだけである。人間は人間であって、新しいも古いもない。みな同じである。

伝統というものは、どこかにあるものではないし、どこかにあったものでもない。今も昔も未来においても、そんなものはどこにも存在しない。伝統があると思うから、伝統から外れたものとして、革新というものが出てくる。そもそも伝統が存在しないのであれば、新しいものも存在しない。実際には伝統も革新もないし、古いも新しいもない。すべて空である。

2

たとえば、輪島塗が日本の伝統文化だとしよう。その伝統はどこにあるのだろうか。

それは輪島塗の漆器の中にあるのだろうか。

しかし、輪島塗を作れる人間がいなくなっても、漆器自体は残る。それを知っている人間がいなくても、もの自体が残っていれば、伝統があると言えるのだろうか。その場合、エジプトにはピラミッド作りの伝統がいまだに残っている、と言えるだろう。

だが、我々はそうは言わない。過去に作られた輪島塗が残っていても、いま作れる人がいないならば、伝統は断絶した、と言われるのである。したがって、輪島塗の漆器の中には、伝統はない。

では、それを作る人間の中に伝統があるのだろうか。

しかしそうだとすると、一人の輪島塗職人が死んだときに、輪島塗の伝統そのものが消滅してしまうことになるだろう。ある人間が伝統そのものであり、その人間の外に伝統はないのだとすれば、そういうことになる。

だが実際には、伝統は受け継がれるものである。一人の職人が死んでも、他の職人が生きていれば、伝統はあると言える。

つまり伝統は、人間の外にあるのでもないし、中にあるのでもない。もしも伝統が人間とは独立に存在するのだとすれば、人間がいなくなっても、伝統は存在し続けるだろう。また、もしも伝統が人間の中に存在するのだとすれば、一人の人間が死ぬときに、伝統も消滅することになるだろう。しかし実際には、そのいずれでもない。


では、それが受け継がれるとはどういうことだろうか。

もしもそれが、ある人の中に伝統というものが存在し、それを別の人間に与える、ということであるならば、それを与え終わった後には、その人の中に伝統は残っていないことになる。たとえば、ある人が自分の車を他人に与えたならば、その人の手もとには車は残らない。それと同様である。

だが、ある職人が別の職人を育てたからといって、その人の技術がなくなるわけではない。

では、ある人の中に存在していた伝統が、二つに分かれて、一つはその人の中に残り、もう一つは別の人に移ったということだろうか。そうすると、もともと一つだった伝統が、二つに分かれてしまったことになるだろう。この場合、輪島塗の職人の数だけ異なった伝統が存在する、ということになる。

つまり、もしも伝統というものがどこかに存在するのであるならば、それを受け継ぐことはできない。しかるに、現に伝統は受け継がれるものである。ゆえに結局のところ、伝統はどこにも存在しない。どこにも存在しないからこそ、それは人から人へと受け継がれ、時に応じてそのはたらきを為しうるのである。これを空と言う。

3

ときどき空を理解しようとする人がいるが、空は理解できない。ただ、空の立場から、この世界を理解することができるだけである。

たとえば、科学を理解する、というのもこれと同じである。それは、どこかに科学という対象があって、それを理解する、ということではない。そもそも科学は、自然を記述するためのものである。したがって、科学を理解するということは、科学的な見方で自然を見る方法を学ぶ、ということである。

つまり、科学を学ぶということは、自然を学ぶということである。そして、空を学ぶということは、己を学ぶということである。また、自然を見るのは、自分の目を通してであるから、己を学ぶということは、自然を学ぶということを既に含んでいる。したがって、科学は空に含まれている。そして道元が言ったように、己を学ぶということは、己を忘れるということである。己自身が空であるという自覚が仏法である。

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