ロボットと人体

1

人間型のロボットを動かすためには、関節部分にモーターを取り付ける必要がある。基本的には、一つの関節に一つのモーターを取り付ければ、関節を制御することは可能である。しかし、人間の体についている筋肉の数は、それよりもずっと多い。一つの関節に対して、三つも四つも筋肉がついているのである。

モーターは、関節の位置を制限するために取り付けられている、と考えることができる。関節の位置座標には自由度があり、その自由度を制限するための条件として、モーターが必要とされる。筋肉の数がそれよりも多いということは、筋肉は、関節の座標を指定するためにあるのではない、ということを意味している。それ以外の何かを制限するために、関節の数よりも多くの筋肉が存在するのである。それは何を制御するために必要なのだろうか。

それはおそらく、運動を制御するためにある。これはCGアニメーションについて考えてみると分かりやすい。CGを作るときにも、関節の位置が重要になる。人体の3Dモデルに対して、それぞれの関節の位置座標を指定して、その時間変化を記述すれば、人間のすべての動きが再現可能になる。理論上はそうなるはずである。しかし実際には、それでは不十分である。

たとえば歌舞伎役者が見得を切るのは、見ているだけで気持ちがよい。動きにメリハリがあって、小気味良く感じる。これをCGで再現しようとすると、どうしてもフワッとした印象になってしまう。動きが抽象的で、重さが感じられないのである。CGのモデルは、人間の筋肉を考慮に入れていない。だから、人間の動きを再現することができない。筋肉は、関節の動き方に何らかの制約をつけているはずである。

空間上の二つの点が指定され、その二点間の軌道が指定されていたとしても、その軌道をなぞる点の運動は、無限に多様でありうる。そこにどのような制限を与えたときに、現実の物体の運動が再現されうるか、ということを考えねばならない。もちろんこれは力学そのものである。だが、力学によって人体を理解することは容易ではない。

何かが足りない、と私は思う。人体を理解するために、あるいは運動を理解するために、必要なものが足りないと感じる。それが何なのか、まだ分からない。結局、アニメーションは手で描くしかないのだろうか。

2

私が体を前に傾け、重心がつま先を越えると、倒れないように足が前に出る。さらに重心を傾け続けると、反対側の足が出る。これが歩行である。

力学は因果関係を追うので、何が先で、何が後かを決めなければならない。しかし、私が歩き始めるときに、足が前に出るのが先か、重心が前に出るのが先か、どうして分かるだろうか。

私が、直立した状態から体を前に傾けるときには、いったい何が原因となっているのか。私は自分の意志で、自分の体を傾けていると感じるが、それを力学的に表現することはできるだろうか。いったい力学は何を記述でき、何を記述できないのか。

むしろ人間の意志は、運動によって引き起こされるのではないか。体を傾けようと思うから、体が傾くのではなく、体が傾いたあとに、体を傾けようという意志が認識されるのではないか。

もしかすると、力学という記述の仕方そのものに問題があるのではないか。力学の体系内には人間の意志が含まれないのだとすれば、自然現象として人間の運動を理解することはできない。力学の記述そのものが、人間の意志を排除してしまっている。だから、力学によって人体を理解することが難しいのではないか。

そうすると、意志を含めた力学が必要であることになる。それはどのようなものだろうか。

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