忠と孝

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中国人にとって最も大切な徳目は、孝である。孝とは親孝行のことであり、親に仕える、親を大切にするということである。

ところが日本では、孝は二番目にくる。日本人にとって一番の徳は、忠である。忠とは忠誠であり、主に仕えるということであり、主従関係のことである。これは日本独特の文化であって、そもそも中国では、忠は徳ではない。

孝とは、血縁関係を尊ぶということである。一方で、忠による主従の関係は、基本的に他人同士の関係であって、血縁関係ではない。つまり、孝よりも忠を重んじる日本社会は、血縁関係よりも他人同士の関係を重んじる社会だ、ということになる。

婚姻関係にもこの特徴は現れている。中国では、結婚した後でも、夫婦はそれぞれ元の一族に属していることになる。そのため、夫婦は別の姓を名乗る。これは、夫婦の関係よりも、親子の関係の方が優先されるということである。

一方、日本では、親子の関係よりも夫婦の関係の方が優先される。そのため、嫁いできた女は親との関係を断ち切り、夫の一族に入ることになる。夫婦に血縁関係はないから、ここでも、血縁関係よりも非血縁的関係の方が優先されるという、日本社会の特徴が見えてくる。

最近の夫婦別姓を求める動きが意味していることは、日本社会の根底にある価値観が、忠から孝へと変化しているということである。この変化は、最近になって始まったというよりは、明治以来の日本社会の欧米化、とくにアングロサクソン的な家族制度を導入したことによる、日本人の価値観の変化の帰結である。

そして、おそらく日本社会は、この変化に耐えられない。忠という根本的な価値が失われることによって、日本社会を支える構造はすべて失われ、社会は液状化し、ぺしゃんこに潰れてしまうだろう。

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しかし、この忠という価値観こそ、これからの時代に必要なものである。ここで忠を、主従の関係に限定する必要はない。むしろ、他人同士の関係を重んじる態度、あるいは、血縁関係の相対化を意味するものと考えてもらいたい。


現在の人間社会が直面している最も深刻な問題は、環境問題である。そして、環境問題の根本的な原因は、人口の増加である。

例として、地球温暖化について考えてみよう。森林を伐採すると、二酸化炭素が固定されなくなり、大気中の二酸化炭素濃度が増える。なぜ森林を伐採するのかといえば、人々の需要を満たすためである。石油を燃やすと二酸化炭素が出る。なぜ石油を燃やすかといえば、人々の需要を満たすためである。牛や豚などの家畜は、呼吸によって二酸化炭素を出す。なぜ家畜を飼うかといえば、人々の需要を満たすためである。

ゆえに、人間が増えれば増えるほど、二酸化炭素も増え、温暖化が進むことになる。したがって、環境問題を解決するためには、人口を減らす、あるいは増やさない努力が必要になる。


孝という価値観は、血族の関係を重視するので、人口の増加を押しとどめることができない。むしろそれは、血族の力を強めるために、人口を増加させる方向に作用すると考えられる。したがって、これからの時代に必要な価値観は、忠である。それは、血縁関係を絶対視しないということであり、結婚や出産を人生の目的としないことであり、結婚もしない、子供もいない人生を当たり前のものと考えることである。

これは現代人にとって、価値観の根本的な転換を意味する。しかし日本人にとっては、それほど難しいことではない。なぜならば、昔に戻るだけだからである。

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そして、この忠という価値観の源泉を辿ると、そこには仏教がある。仏教の特徴は、あらゆる権威の否定であり、絶対性の否定であり、すべての価値の相対化である。血縁関係を相対化する忠のあり方は、このような仏教の特徴を受け継いでいる。


少し天皇の話をしたい。

明治以来の天皇制は偽物である。どういうことかというと、天皇は本来、世俗的なものである。世俗的な権力の頂点であり、世俗の象徴が天皇である。それが、明治以来の近代天皇制では、天皇は神聖なものだとされてきた。ここでは、根本的な価値の転倒が起きている。

たとえば、帝国憲法でも、日本国憲法でも、第一条は天皇の規定である。天皇が主権者であるとか、主権者の象徴であるという条文が、憲法の一番初めにくる。しかし十七条憲法では、天皇が現われるのは第三条である。第一条が和を以て貴しとなす、第二条が三宝を敬えで、第三条にようやく天皇の話が出てくる。つまり、天皇の上に仏陀がいるのである。これが日本社会のありようを象徴していると言ってよい。

仏教は天皇の権威を相対化する。それは絶対的なものを決して認めないので、世俗的な権力者が神性を帯びることを否定する。天皇の権威を鼻で笑い、一切の世俗的な権力を笑い飛ばすことで、それらを世俗の世界に押しとどめようとする。そのような、寺と天皇の緊張関係が、日本社会のバランスを作り出してきたのである。

そのバランスが壊れるきっかけとなったのが、織田信長による比叡山焼き討ちと、一向一揆の討伐であろう。これによって仏教の力は削がれ、その後江戸時代には、檀家制度として権力の中に組み込まれてしまう。

このときに、仏教の持つバランサーとしての力は完全に失われ、人々は仏教の存在を認識できなくなってしまった。たとえば、水戸学や本居宣長の国学は、仏教を無視した日本史であり、日本学である。それは本来の日本の姿ではありえないが、江戸時代の人々には、仏教の重要性が理解できなかったので、仏教抜きの日本観が自然に受け入れられたのである。

しかし江戸時代には、武家政権が仏教の代わりとして、一種のバランサーとして機能していたので、まだよかった。これが明治になると、廃仏毀釈によって仏教は完全に捨てられ、そこに西洋からキリスト教が侵入してくることになる。こうなると、世俗的な権力の絶対化には歯止めがかからなくなる。

そもそもキリスト教には、仏教のような価値の相対化の働きはない。それは世俗的な権力を肯定し、権力の中心を生み出す方向にのみ作用する。仏教が権力の絶対化を否定するのに対して、キリスト教はそれを推し進める。そのような背景の下で、さらに王権神授説や絶対王政の影響を受けて、絶対主義的な近代天皇制が成立したのである。


日本においては、仏教的な平等主義が、天皇を世俗化し、権力の暴走を防いできた。その平等主義は、忠という徳を通して武家政権に受け継がれ、江戸時代の安定をもたらした。

それが失われたときに、日本社会は壊れてしまった。明治維新は日本の崩壊の始まりである。その所以は、正教である仏教を捨て、邪教であるキリスト教を受け入れたからである。これほど明白なことはない。

<参考>
人口爆発と気候変動
日本人の道徳

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