反出生主義

1

子どもを産むことで何らかの責任が生じる、と考える人がいるようだが、産みたくなければ産まなければよい。社会における出生率の低下は、それとは全く別の問題である。

子どもを産んで育てることは、普通の人間にとっては幸福である。そういう人が普通に子どもを産める社会を作るということは、とうぜん必要なことである。だからといって、すべての人間が子どもを作らなければならない、ということにはならない。

産みたくなければ産まなければよいが、産みたい人にとって産みやすい社会を作るべきである。なぜならば、そのような社会でないと持続性がないからである。

そのような社会において、子どもを産めるのに産もうとしない人間が肩身の狭い思いをするからといって、文句を言うべきではない。それはただのわがままである。

あらゆる人間にとって何一つ不満がない社会を実現することは不可能である。人間が生きていれば様々な不都合があるのは当然で、そういうことでいちいち政治家に文句を言ったり、誰彼かまわず不満をぶつけたりするべきではない。

人生において最も重要なことは忍耐である。よりよい社会を実現するために必要なものも忍耐である。わがままな振る舞いからは何も生まれない。

2

私自身は仕事をするつもりもないし、子どもや家族を作るつもりもない。それが私にとっての幸福だからである。

しかし、たとえば世が乱れ、社会から秩序が失われれば、私も生きづらくなるだろう。だから、私は秩序ある社会の建設のために努力する。それが結局は、私自身の幸福にもつながるからである。

3

世の中には四つの行いがある。

 一つ目は、自分のためにもならないし、他人のためにもならない行い。
 二つ目は、自分のためにはならないが、他人のためになる行い。
 三つ目は、自分のためにはなるが、他人のためにはならない行い。
 四つ目は、自分のためにもなり、他人のためにもなる行い。

これら四つの行いは全て現実に可能なものであるが、私が目指すのは四番目の行いである。

しかし知恵の劣った者どもは、これら四つのうち一つだけ、あるいは二つだけ、三つだけが可能であると考える。彼らにそう考える根拠を尋ねても、意味のある答えは返ってこないだろう。それはただの思い込みであるから。これを無明と言う。

四番目が不可能であると考える人は、自分がやりたくないだけである。自分が楽をするために、それが不可能であるとか、実現可能性が薄いとか、様々な理屈をこねて人を説得しようとする。彼は、世の中の人間全員が怠惰になれば、自分が怠けても誰にも咎められない、と考えている。だから人にも怠惰を勧めようとする。そういう人間をキリスト教徒と言う。

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