満洲事変概説

世間には、満洲国について様々な誤解があるようなので、改めて説明しておきたい。ある人は、満洲事変は侵略戦争だった、と言う。では、それは誰に対する侵略だったのか。日本軍は、中国人を侵略したのだろうか。しかし、満洲はいつから中国人のものになったのか。

そもそも、満洲が中国王朝の版図に組み入れられたことは、前漢時代の一度しかない。その後、モンゴル帝国や大清国の領土とされたことはあったが、それらは中国人の王朝ではない。したがって、満洲は昔から中国の領土だった、という主張は誤りである。

たとえば明の時代には、河北と満洲の間に長城が築かれ、それが中国の国境線になっていた。ゆえに、少なくとも明の時代には、満洲は中国ではなかったと言える。その後、東アジアの情勢不安の中で、ヌルハチという人物が満洲の諸部族を糾合し、後金国を立てることになる。次のホンタイジの代になって後金は大清へと名前を変え、さらに三代目の順治帝のとき、大清国は中国へと進出し、中国の統治を始めることになる。

大清国と明朝は初め敵対関係にあったが、李自成の乱によって明が滅ぼされたことで、状況が変わった。明の遺臣たちが満洲族を中国領内に招き入れ、自分たちの代わりに李自成を討たせたのである。このときに、満洲人による中国の統治が始まった。ただし、ホンタイジの大清皇帝への即位は、満洲人、モンゴル人、漢人の三民族の推戴を受けてなされたものであり、大清国には諸部族の連合国家という側面もあった。

しかし、満洲人がその主体であったことに変わりはない。ゆえに、大清国の統治下にあった満洲は、中国人の土地ではなく、満洲人の土地であったと考えられるべきである。では、いつからそれが中国の一部になったのか。それは、1911年に始まった辛亥革命によって、大清皇帝が、中華民国大総統に天子の位を譲ったときであろう。このとき、それまで満洲人のものだった満洲が、中国人のものとなったのだ、という理屈である。

しかし、このとき宣統帝から権力を移譲されたのは中華民国、そしてその首領である袁世凱であって、張作霖ではない。ゆえに、たとえ満洲が中国人の領土になったのだとしても、張作霖に満洲を統治する権利があったとは言えない。だが、当時の満洲を実効支配していたのは張一族である。さらに、国民党の北伐によって討伐の対象とされた張作霖は、中華民国の一員であったと言うこともできない。いったい張作霖にはどんな権利があって、満洲を統治していたのか。むしろ張作霖こそが、満洲を侵略した張本人ではないか。また、その張一族を満洲から追い出した日本軍は、誰を侵略したことになるのか。いったい如何なる意味で、満洲事変は侵略戦争だと言われるのか。そもそも、満洲における正当な支配者とは誰なのか。

実際には、満洲の支配者は中国人でもないし、満洲の王族でもない。満洲という土地において生活する市民こそが、満洲の主権者でなければならない。そのように、市民を主権者として、市民が政治に参加できる国家として建国されたのが、満洲国である。それは形の上では帝政であったが、議会の設置も予定されており、国民の政治参加を強く求める国家になるはずであった。

しかし、建国の経緯と世界情勢の悪化の中で、満洲における日本軍の発言力が増していったのは、実に不幸なことであった。あと十年、二十年満洲国が続いていたならば、その本来の姿を取り戻すことができたかもしれない。満洲国が短命に終わってしまったことは、人類にとって大きな損失であったと言わねばならない。


私が満洲国にこだわるのは、現在の東アジアを取り巻く社会情勢の中で、満洲国の理念を思い出すことが、是非とも必要だと考えるためである。実際のところ、中国人を蹂躙したのは日本人ではなく、同じ中国人の地主たちである。彼ら支配階級の横暴によって、人民はつねに苦しみを味わわされている。そして、当時の満洲におけると同様の状況が、現在もモンゴル人やチベット人、ウイグル人の身の上に降りかかっている。

張学良は、農業には向かない、しかし他にめぼしい産業もない満洲という土地で、二十万を超える軍団を養っていた。しかも関東軍が持っていなかった飛行機を含め、最新鋭の装備をそろえていた。いったいそれだけの金が、どこから出てきたのだろうか。

当然、人民から搾り取っていたのである。満洲という土地の経済規模には不釣り合いなほど巨大な軍隊を、張一族は有していた。この点だけを見ても、彼らがどのような政治を行っていたかは明らかであろう。

チベットの主権者はチベットの市民であり、モンゴルの主権者はモンゴルの市民である。東トルキスタンの主権者は東トルキスタンの市民であり、中国の主権者は中国の市民である。それは、満洲の主権者が満洲の市民だったのと同様である。我々は、満洲国の理念を今一度思い出さねばならない。

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