浄土真宗と飲酒

不飲酒戒

はじめに断っておくが、私は真宗の信徒ではないので、勝手なことを言わせていただく。そのつもりで読んでほしい。

浄土宗の教えは、念仏さえ唱えれば往生できるというものであり、徳を積まなくても果報が得られるということで、一般の人々の信仰を広く集めた。ところがこの教えを歪めて理解し、どうせ往生できるのだから、念仏を唱えたあとで悪いことをしても構わない、と考える者が現れた。このような考えを造悪無碍という。親鸞が生きていたころにも、このような考えが行われたことがあり、彼はこれを厳しく否定している。

では、具体的に悪とは何かといえば、それは五戒を破ることである。五戒とは不殺生、不偸盗、不妄語、不邪淫、不飲酒であり、人を殺さないこと、ものを盗まないこと、嘘をつかないこと、不倫をしないこと、酒を飲まないことが善である。逆に、人を殺すこと、ものを盗むこと、嘘をつくこと、不倫をすること、酒を飲むことが悪である。

ゆえに、もしも現代の真宗僧侶が、好んで酒を飲むならば、彼は造悪無碍を行っていることになる。これは親鸞の意志に著しく背くことである。このことをよく考えてみるべきであろう。

方便としての酒

酒は毒である。それは人の心と体を害するものである。また、周囲の人々にとっても害になりうるものだから、飲むべきではない。これが仏の教えである。

ただ、真宗の事情は特殊である。親鸞は、自分が煩悩具足の凡夫であることを示すことで、人々を信仰に導いた。人間にとって最も大きな幸せは、仏の教えを信じることである。それを人々に与えるために、彼は自分の人生を利用したのである。

真宗の僧侶が酒を飲むのは方便である。このような凡夫であっても浄土に行くことができる、と人々に信じさせることで、彼らを安心させ、仏の道に導くことができる。そのために酒を飲むならば、それは毒ではない。ただ自らの楽しみのために飲むならば、それは毒である。

これが、親鸞の教えの私なりの理解である。真宗僧侶の歩む道は、聖道門のそれよりもはるかに険しく、か細いものである。その道を歩む術を聖人が教えてくださっているのだから、それをよく聞くべきであろう。

教行信証の論理は多くを『涅槃経』によっている。この経典には逆説的な表現が多く、非常に読みにくい。私はまだすべてを読んでいないが、もしかすると飲酒を肯定する表現も出てくるのかもしれない。

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