ユダヤについて

内田樹という人がいる。日本の左翼系言論人の代表と言ってもいいだろう。彼はいわゆる「自虐史観」の持ち主である。彼はレヴィナスに師事し、近代ヨーロッパの思想・哲学に精通しているようである。

彼はあまりにユダヤ的である。ユダヤ的な思考法が彼の中に染みついている。それは彼の歴史観と切っても切れない関係にある。

大抵のユダヤ人は、第二次世界大戦を客観的に評価することができない。自分たちの同胞を無残に虐殺したナチス・ドイツを、そしてナチスが引き起こしたあの戦争を、彼らは冷静に分析できない。彼らにとってナチスは絶対的な悪であり、ナチスと戦ったアメリカは絶対的な善である。ゆえに、善であるアメリカと戦った日本は悪でなければならない。これがユダヤ人の思考法である。

ユダヤ人から大きな影響を受けている内田が、自虐史観をとるのは当然である。日本が悪であるという命題は、ナチスがユダヤ人を虐殺したという事実から導かれる論理的な結論である。

ユダヤ人の思考には常に盲点がある。彼らは自分自身を客観的に眺めることができない。自分と敵対する人間は悪であり、自分の味方は善である。一度そう思い込んでしまうと、その偏見を覆せなくなってしまう。

アメリカはそれを利用した。彼らは日本と戦う口実が欲しかった。そのために、世界を敵と味方に二分し、日本を敵側に追いやった。その論理は見事に機能した。単純な思考しかできないユダヤ人は、まんまとアメリカ人の術中にはまったのである。その幻はいまだに解けていない。現代の日本にも、古くさい嘘に騙されている人間がいるのだから。


地獄の衆生は、自分は望んでここにいるのだと思い込んでいる。これは自分で選んだことなのだから、ここが一番いい場所なのだ、と。ここはたしかに苦しい場所だけど、ここよりも苦しいところはたくさんある。だから、ここはいい場所なのだ。

そう思い込んでいるために、自分が地獄にいることを認識できない。それで、いつまでもそこから抜け出せないのである。地獄は認識の歪みがもたらすものである。

ときどき勘違いしている人がいるが、仏の教えはすべて比喩である。たとえばキリスト教では、イエスは神だと言う。それは、実際にイエスが神だった、ということを意味しているわけである。西洋の学問は、比喩としてではない言葉の使い方を認めている。そうした言葉の使い方が正しいものだと考えている。

しかし、仏の法を言葉で表現することはできない。それは間接的に示されるのみである。地獄という言葉が意味することは、地獄という世界が実在する、ということではない。地獄という状態が存在する、ということでもない。では何か、と言われても、答えることはできない。それは各自で理解するしかないからである。

言葉は真理と対応しない。なぜならば、真理は言葉を含むからである。言葉よりも先にあるものを、言葉によって表現することはできない。

阿弥陀仏という言葉は、阿弥陀仏が実在することを意味するわけではない。もちろんそれをも意味しうるが、それ以上のことを意味しているのである。その点が理解できないと、仏教における信仰のあり方というものは、全く理解できないだろう。それをキリスト教などの宗教と同様に考えてはいけない。何かの存在を信じるという形での信仰ではないのだから。

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