懐疑主義

まことしやかに語られている話だが、エジソンは子供のころ、学校の先生に、一足す一はどうして二になるのか、と質問したとされている。そしてこの話を、常識を疑うことの重要性を示す話だとして、喜んで引用する人々がいる。

だが、エジソンが本当にそれを疑っていたとは考えられない。もしも彼が、一足す一が二であることを理解できなかったのだとすれば、一個一ドルのリンゴを二個買うときに、三ドル払っていたはずである。しかし、そんな人間が金持ちになれるはずがない。エジソンは子供のときから、一ドルのリンゴを二個買うときには、きっかり二ドル払っていたはずである。もしかすると値切ろうとしたかもしれない。

つまり、はじめのエジソンの質問は、学校の先生を困らせるために言ったことであって、エジソンの根性がねじ曲がっていることを示しているに過ぎない。だから、こんな話を持ち上げるべきではない。

世の中には懐疑主義者が多いようで、何かというと常識を批判したり、学校の授業を批判したりする。そういう人は、教育は洗脳の一種だ、と言ったりする。しかし、一足す一が二であることを子供に信じ込ませることは、洗脳ではない。一足す一が三であると信じ込ませるならば、それは洗脳である。つまり、間違った知識を信じ込ませることが洗脳であって、正しい知識を信じ込ませることは洗脳ではない。それは教育である。

懐疑主義者の不思議なところは、懐疑主義そのものを疑わないことである。何もかもを疑うという態度の正しさを、絶対的に信じているわけである。しかし、どんなことにも疑問を持つことが大事だ、というのは間違いである。正しい考えならば、そのまま信じたほうがよい。

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