障害と悪

1

 障害を持つことはよくないことである。不幸なことである。病気になることはよくないことである。不幸なことである。よくないことをよいと言うべきではない。悪くないことを悪いと言うべきではない。
 障害者が生きていることは悪いことではない。障害者を殺すことは悪いことである。悪いことをすることが悪いことであって、悪いことをしないことは悪いことではない。
 私は障害者になりたいとは思わないが、だからといって、障害者を殺してよい、ということにはならない。そこには道理が欠けている。私は、生命は尊重されるべきだ、とは思わない。しかし、生きているものを殺すことは悪いことである。

 善悪は行為の名前である。存在の名前ではない。生きているということは、それ自体でよいことであるわけではない。また、それ自体で悪いことであるわけでもない。
 悪い行いをした人間には悪い意思があったのだ、という考えは一つの仮説に過ぎない。そのような意思があったのであれ、なかったのであれ、悪いものは悪い。意思の善悪と行為の善悪は分けて考えねばならない。そして、意思もまた一つの行為である。

2

 もしも障害者が悪事を犯すならば、彼は処罰されるべきである。しかし、そうでないならば、処罰されるべきではない。ゆえに、もしも、経済的に自立していないことが悪事とみなされるならば、自立していない障害者は処罰されるべきだ、ということになる。
 問題の本質は、現在の日本社会において、金を稼がないことは悪だ、と考える人が増えていることである。しかし実際には、金を稼ぐことは良いことではないし、金を稼がないことは悪いことではない。

 ここに見られるのは、貨幣への信仰である。正確に言えば、金を稼がないことが悪だと考えられているわけではない。そうではなく、金を稼ごうとしないこと、貨幣への意志を持たないことが悪だと考えられているのである。これは、神への信仰を持たないことが悪だと見なされることと相似である。
 現代社会の本質は貨幣への信仰である。そして、それはキリスト教の信仰と同一である。あるいは、ユダヤ教の信仰と同一だ、と言ったほうがより正確かもしれない。

3

 ヒトラーはある意味では正しかった。ユダヤ教には問題がある。ヒトラーの誤りは、ユダヤ人の遺伝子に問題があると考えたことである。だが実際には、ユダヤの宗教に問題があるにすぎない。そのため、ユダヤ人をどれだけ殺しても、問題は解決しない。破壊するべきはユダヤの遺伝子ではなく、ユダヤの宗教である。

 ヒトラーの中には善なるものへの意志がある。それは否定されるべきではない。否定されるべきは、彼が犯した誤りである。ユダヤの宗教や文化に問題があることは、否定されるべきではない。しかし、ユダヤ人の虐殺は否定されるべきである。
 彼らの宗教には、誤りを犯すことへの意志がある。無知への意志がある。それは徹底的に否定されねばならない。ユダヤ人の虐殺によって、ユダヤの信仰が正当化されるわけではない。誰かの犠牲によって、他の何かが正当化されることは決してありえない。
 ヒトラーの間違いはもう一つある。ユダヤ的なものが否定されるべきならば、当然キリスト教も否定されねばならない。そこまで踏み込めなかったことが、彼の限界である。

 またこれは言う必要のないことかもしれないが、念のために言っておく。アメリカ人には、ヒトラーを擁護する私の意見を非難する権利はない。なぜならば、フランクリン・D・ルーズベルトには、ヒトラーと同じ意図をもって日本に対する戦争を始めた疑いがあるからである。私を非難するのは、彼の潔白を証明した後にしてもらいたい。

<参考>
目的の追究
太平洋戦争概説

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