マッハとカント

1

 アインシュタインが、マッハの影響を受けていることはよく知られている。しかし、マッハに影響を与えた人物については、あまり知られていない。私が思うに、マッハはカントの影響を強く受けている。とくに、カントの『自然科学の形而上学的原理』の中には、マッハの原理と同一の考えが既に示されている。ドイツには、カント、マッハ、アインシュタインと続く物理学の系譜がある。それは、批判物理学とでも呼ぶべきものだろう。

 カントは前掲書の中で、ニュートンの力学を徹底的に批判している。そして彼は、そこからさらに一歩を踏み出している。カントはニュートン力学を正確に理解していなかった、という評価が一部にあるようだが、そうではない。彼の力学は、ニュートンのそれを踏まえた上で、その先に進もうとしていたのである。そのため、彼の力学はニュートン力学と一致しない。それはむしろ、相対論の方に一段近付いていると言える。
 ただ、彼の書物は難解である。前述の書に関しても、物理学者が読めるような代物ではない。カントの書いたものを、普通の人にも読めるように「翻訳」する作業が必要なのではないかと思う。
 多分、マッハがカントについてあまり語らなかったことも、そういうところに理由があるのだろう。普通の物理学者には、カントの本は読めない。だから、カントの名前を出すのはフェアではない、と思ったのではないか。そして、そのために学問の系譜が見落とされてしまっている。

 私は、原子論に関する論文を自分で書いた後に、カントの本を見つけた。そして、そこに書いてあることが私の考えにそっくりだったので、ひどく驚いたものである。つまり、私は以前からマッハの本を読んでいたので、間接的にカントの影響を受けていたわけである。世間の人の気付かない繋がりというものは、色々なところにある。

2

 興味深いことに、カントは先述の本の中で、万有引力の法則にア・プリオリな説明を与えている。

 それを解説するために、カントの動力学に対する基本的な考え方を紹介しよう。まず、万有引力の存在を仮定する。そうすると、あらゆる物質は、常に互いに引き合っていることになる。したがって、もしも引力以外の力が存在しないならば、全ての物質は一点に集まり、大きさを持たなくなってしまうだろう。しかし、現実にはそうなっていない。ということは、この世界には、万有引力以外にも力が存在するはずである。それは、物質の大きさを万有引力に逆らって保つ働きをする力、つまり斥力でなければならない。
 このようにして、引力と斥力の二種類の力が、全ての物質に根源的に備わっていることが明らかにされる。万有引力だけでは、物質が大きさを持つことを説明できない。そこで、万有引力と対になる、反発力が仮定されるのである。実際にはカントの議論は、ここで示したものとは逆で、初めに斥力を導入している。しかし、議論の本質は変わらない。

 彼の物理学に対する見方は、本質的に動力学的なものである。物質よりも、運動を物理学の基礎に置いている。つまり、物質によって運動を説明するのではなく、運動によって物質を説明しようとする。物質が力を生み出しているのではなく、力が物質を生み出している、と考える。ゆえに、我々の周りにある物質の性質を説明するために、どのような力を仮定すべきか、という形で議論が進む。非常にユニークな物理学である。
 彼は物理学においても、物質の存在を自明なものと見なしていない。これはたしかに、彼の哲学と通じるものである。しかし、彼の物理学が、彼の哲学の帰結であると考えるべきではない。そうではなく、おそらく彼の哲学の方が、彼の物理学の帰結なのである。『純粋理性批判』は、人間の精神を物理学の観点から説明するためのものである。少なくとも、私にはそのように見える。

 そして、そのように力の存在から物質の性質を説明しようとするとき、あらゆる物質が普遍的に持つべき引力と斥力の存在が、ア・プリオリに導かれるのである。万有引力と対になる、この根源的な斥力は、パウリの排他律と比較されるべきものだと思う。彼はまた、斥力の強さは距離の三乗に逆比例する、と述べている。これが何を意味するのか、私にはまだ分からない。
 もちろん、これらの結論を導くためには、いくつかの仮定を設けなければならないのも確かである。たとえば、万有引力は物質の量に比例する、という仮定は、それそのものが、物質の量が存在する、というもう一つの仮定に基づいている。では、物質の量とは何だろうか。そもそも、物質の量を仮定せずに物理学を始めることは可能なのか。

 そのように仮定の根拠を問い詰めてゆくことこそが、カントの思考の特徴である。言い換えれば、彼はここで、いかなる仮定にも依存しない物理学を探究しているのである。どんな仮定を基礎に置こうとも、それ自体は不変であり続けるような物理法則、いわば一般物理法則のようなものが、ここでは探求されている。
 彼は、ニュートン力学が、物質の量を仮定することなしには成り立たないことを示し、さらには一般に物理学そのものが、その仮定なしにはありえないことを示した。すべての物理学が、科学としての合理性を持ちうる限りで、必ず仮定しなければならない命題が存在すること、すなわち物理学のア・プリオリな原理が存在することを、彼は示したのである。

 また、カント自身の言葉で言えば、物質から出発する物理学は力学的自然哲学と呼ばれ、原子論がこれに当たる。それに対して、運動から出発する物理学は動力学的自然哲学であり、彼自身の物理学がこれに含まれる。カントが示した物理学の基礎は、原子論によらない物理学を探求するための、足掛かりとなりうるものである。よくよく研究してみるべきだと思う。
 しかし私には、どうして万有引力が距離の自乗に反比例しなければならないのかが理解できない。カントはそれを光との比喩で理解しているようなのだが、それが本当に説明になっているのかどうか、私には判断できない。それとも彼は、説明したつもりになっているだけなのだろうか。力に対するカントの理解には、少し不可解な点があるように思う。

3

 原子論には、あらかじめ物質の量という概念が含まれている。そしてそれは、原子の存在を仮定しない物理学にも、必ず含まれていなければならない概念である。つまり、物質の量が存在するという仮定は、原子が存在するという仮定よりも、より基本的なものだと言うことができる。
 これまでに我々が得た実験データは、必ずしも原子論によってしか説明されえないものではない。むろん、原子論によってそれらを説明することは可能かもしれないが、そのことは、それ以外の説明が存在しないことを意味するわけではない。

 原子の存在は一つの仮定であり、それは今でも仮定のままである。なぜならば、それ以外の説明が不可能であることを証明できないからである。つまり、原子論は本質的に反証不可能である。ゆえに、我々はそれを科学的な仮説ではなく、むしろ公理と考えるべきである。そして、原子論という公理系を採用するかどうかは、研究者の選択にゆだねられるべきである。
 この意見を不審に思う人は、どうすれば原子論を反証することができるのか、一度考えてみてほしい。神の存在を、証明することも反証することもできないのと同じように、原子論を否定することも肯定することも不可能である。
 私の意見では、ボーアが相補性原理を提唱したときに、原子論はすでに破綻している。彼の相補性は、原子は存在しない、という以上のことを意味しない。それにも関わらず原子論が生き延びているということは、それが科学的な仮説ではなく、むしろ一種の独断であることを証明しているように思われる。

<参考>
原子論批判

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