空の論証

ギリシャ哲学と仏教中観派の比較研究

1 序論

1.1

 あるものの認識は、認識される対象以上に実在的である。しかし、認識される対象が存在しなければ、認識そのものも存在しえない。ゆえに、認識は、認識の対象に依存している、と言うことができる。しかし、我々はやはり、認識を通してしか、認識される対象の存在を知ることはできない。ゆえに、認識の対象も、認識に依存していると言える。
 認識の対象なしには認識は存在しないし、認識なしには認識の対象は存在しない。ここには循環がある。どうすればこの循環を解消できるだろうか。

 あらゆるものは変化し続けている。そこに例外はない。岩石でさえも、あるいは風雨に曝され、あるいは周囲の岩石の圧力に曝されることによって、絶えず変化し続けている。
 したがって、それ自体において変化することのない実体が存在する、という考えは正しくない。むしろ、ただ変化のみがある、という考えが正しい。あらゆるものは無常である。それが真実の相である。
 私の立場は、反観念論であり、反唯名論であり、反実在論である。
 私の立場は、縁起であり、無常であり、空である。

1.2

 因果関係においては、結果が原因に含まれているわけではないが、原因によって結果が決定されないわけでもない。結果は原因と異なるのでもないし、同じものでもない。
 例えば、人間が子を産むとき、子は人間であって蛙ではない。したがって、親と子は別のものではない。しかし、同じ人間といっても、それぞれの特徴を見てみれば、親と子が同一のものでもないことは明らかであろう。
 このような関係は、親と子のような大雑把な因果関係だけでなく、あらゆる微細な因果関係においても、厳密に成り立っている。原因と結果は分かち難く結びついているが、同一ではない。それは一種の関係である。

 それは、C・S・パースが第三性と呼んだものに対応するだろう。原因は第一性、結果は第二性と対応する。しかしパースは、自分が何を発見したのかを知らなかった。彼は縁起を発見していたのである。

1.3

 例えば、牛乳からヨーグルトを作ることを考えよう。我々はこのとき、牛乳がヨーグルトに変化した、と言うことができる。では、この場合、いったい何が変化したのだろうか。

1.3.1

 牛乳が変化したのだ、とあなたは言うだろう。
 それは、牛乳において、変化が起こったということだろうか。つまり、牛乳の中で、変化が起きたということだろうか。もしもそうであるならば、変化した後も、牛乳は牛乳のままであることになるだろう。もしもその変化が、牛乳の性質を損なわないならば、牛乳は牛乳のままだろう。

 そうではなく、牛乳そのものが変化したのだ、とあなたは言うだろう。牛乳を牛乳たらしめている、牛乳の性質が変化したのである、と。
 しかし、もしも、その性質が牛乳を牛乳たらしめているのだとすれば、そしてもしも、その性質が変化してしまうのだとすれば、変化しつつあるまさにその時、変化しつつあるそれは、もはや牛乳とは言えないだろう。したがって我々は、牛乳が変化した、と言うことはできない。変化しつつあるとき、それはもはや牛乳ではないからである。

1.3.2

 では、何が変化したのだろうか。
 それはすでに述べたとおり、牛乳を牛乳たらしめている、牛乳の性質が変化したのである、とあなたは言うだろう。
 しかし、牛乳を牛乳たらしめている牛乳の性質とは別に、牛乳というものが存在するだろうか。もしも、牛乳の性質を離れては、牛乳が存在しないのならば、変化しつつあるその性質を、牛乳の性質と呼ぶことはできない。もはやそれは牛乳の性質ではなく、何か牛乳以外のものの性質であるからである。したがって、牛乳の性質が変化した、と言うこともできない。
 かといって、ヨーグルトの性質が変化した、と言うこともできない。変化が起きる前には、ヨーグルトはまだ存在していないからである。しかし一体、それが牛乳とヨーグルト以外の、他のいかなるものの性質でありうるだろうか。
 要するに、我々は、牛乳が変化したと言うこともできないし、ヨーグルトが変化したと言うこともできない。また、牛乳とヨーグルト以外のものが変化した、と言うこともできない。しかし、何も変化しなかった、と言うこともできない。なぜなら、牛乳がヨーグルトに変化しないということは、実際の経験に反することであるから。

1.3.3

 ここで展開した議論は、牛乳からヨーグルトへの変化だけでなく、あらゆる変化に関して成立するものであるということに注意してほしい。
 もしもあなたが、牛乳を構成するタンパク質にまで遡れば、困難はなくなるだろうと考えるならば、それは誤りである。その場合でも、あるタンパク質から別のタンパク質への変化の過程に関して、まったく同じ議論が成り立つだろう。
 あえて言うならば、ここで問題にされていることは、量子力学の本質に関わることである。化学変化とは何であり、そして一般に、変化というものが何であるか、という問題である。

1.4

 中観派の開祖龍樹は、この事情を空という言葉で表現した。それは、因果関係、あるいは一般に、事物の生滅変化を説明するために編み出された考えである。
 しかし我々は、この同じ事態を、龍樹とは全く独立に考察した人物を知っている。アリストテレスは、変化の主体となるものを質料と呼ぶことで、この困難を解決した。したがって我々は、質料と空とを、同一の問題意識の下で考察することができる。

 アリストテレスによれば、変化の主体は牛乳の性質ではない。変化の主体は質料であり、質料において性質が変化するのである。牛乳からヨーグルトへの変化の過程において、全く変化しないあるものが存在する。そして、それの上に、牛乳やヨーグルトという属性が与えられている。変化とは、そのような、属性の付け替えにすぎない。このとき、変化の過程において変化しないものが、質料である。そして、質料に与えられる属性が、形相と呼ばれる。
 ここで、形相という概念を理解するのは比較的簡単である。形相とは、そのものが何であるか、ということであり、牛乳なら牛乳、ヨーグルトならヨーグルトが、それぞれの物質の形相である。
 しかし、質料という概念を正確に把握することは難しい。いったい質料とは、具体的には何であるのか。

 それは、これこれのものである、と言うことのできないものである。なぜならば、あるものが何であるか、ということを、我々は形相と呼んでいたからである。質料は、形相とは異なるものであるから、それが何であるか、ということを言うことはできない。ある意味で、それが質料の定義である。
 質料とは、存在するとも言えず、存在しないとも言えず、自分を自分たらしめる性質を持たないが、それがなければいかなる形相も現実にはありえないし、いかなる変化もありえない、そのようなものである。これは非常に曖昧で、取り扱いにくい概念である。しかし、我々はこれから、この概念を追及してゆかねばならない。それは、ものの変化を理解するための必要不可欠な手続きとなるだろう。

1.5

 ここで、この問題に関する量子力学の立場を確認しておこう。
 ある化学物質が別の化学物質に変化するとき、あるいは、ある原子核が別の原子核に変化するときでもよいが、そのとき、量子力学は、その変化の確率を計算することができる。
 では、変化の過程において、何が存在しているのか。変化の過程にある物質は、変化の前にあった物質と同じものだろうか、それとも、変化の後に生じる物質が、変化の過程ですでに存在しているのだろうか。量子的な変化とは、実際のところ何であるのか。

 この疑問に対する量子力学の答えは、周知のとおりである。その過程においては、何かが存在しているのでもなく、存在していないのでもなく、それが何であるか、という問い自体が意味を持たない。波動関数が収縮する過程を見ることはできない。光子が飛んで行く跡を追うことはできない。変化の過程そのものは、量子力学の内部から、注意深く取り除かれている。
 しかし、このような自然の捉え方は、アリストテレスの哲学とよく一致するのである。アリストテレスにとって、変化の過程において存在するものとは、質料に他ならない。しかし、質料とは何であるか、という問いは、意味を持たないのである。彼の哲学は、変化の過程そのものについて、口をつぐむ。
 ある形相が別の形相へと変化する過程は、ちょうど、ある固有状態から別の固有状態への遷移と、類比的である。おそらく、質料の概念なしに、量子的な遷移の本質を理解することはできないだろう。

1.6

 質料概念について、もう少し説明しよう。
 例として、青いトマトが赤くなる過程を考えよう。このとき我々は、トマトにおいて、その色が青から赤へ変化した、と言うことができる。したがって、この変化の過程においては、トマトは、質料の役割を担っているといえる。しかし同時に、トマトは、トマトという形相を持つ個物である。ゆえに、この場合においては、トマトの形相が、質料としてはたらいた、と言うことができる。
 このように、質料と形相は相対的なものである。どのような変化に注目するかによって、任意の形相は質料とみなされうる。

 アリストテレス哲学の最も重要な特徴が、この質料概念である。この発見によって、プラトンのイデア説によっては捉えることができなかった、事物の生滅変化という問題を、哲学的思弁の中で捉えることが可能となった。
 それは大きな進歩であった。しかし同時に、その概念の曖昧さと扱いにくさのゆえに、様々な混乱を招く原因にもなったのである。その混乱が誤解に基づくものであると、どうして言えるだろうか。むしろ、質料という概念そのものに矛盾が含まれているために、誰もそれを正しく理解できなかったのではないだろうか。我々はこのことを、アリストテレスと龍樹の思想を突き合わせることによって、明らかにしてゆきたいと思う。
 質料概念の本質とそれに伴う困難は、『生成と消滅について』において、最もはっきりと現れている。ここから考察を始めよう。

2 アリストテレス

2.1

 まず、『生成と消滅について』における、アリストテレスの所論をまとめよう。
 我々が注目するのは、土、水、空気、火という四つの単純物体の、相互への生成・消滅を取り扱っている部分である。説明のかなめとなっているのは、いわゆる「割符」の理論である。彼は、四つの単純物体のほかに、四つの基本要素の存在を主張している。基本要素とは、感覚されうる反対的諸性質のうちで、最も基本的なものであり、熱、冷、乾、湿の四つである。
 このうち、熱と冷は互いに反対的であり、乾と湿も同様である。これら二組の反対的性質の組み合わせによって、単純物体は構成される。土は冷と乾によって、水は冷と湿によって、空気は熱と湿によって、火は熱と乾によって構成される。
 基本要素は四つあるので、そこから二つを選ぶ組み合わせは六種類ある。しかし、熱と冷、および乾と湿の組み合わせはありえないので、残る四つの組み合わせが、それぞれ単純物体に対応する。

 割符の理論とは、これらの単純物体が、相互に生成する様式を記述するものである。例えば、空気{熱、湿}が火{熱、乾}に変化するとき、熱という性質はそのままで、湿が乾へと変化する。このような変化は生じ易い。一方、水{冷、湿}が火{熱、乾}へと変化するときは、二つの性質が共に反対の性質に変わらなければならないので、このような変化は生じにくい。これが割符の理論である。

2.2

 この説明の巧妙さはどこにあるのだろうか。
 それを理解するためには、まず、アリストテレスの基本学説たる、質料‐形相説を把握しておく必要がある。
 彼は、『自然学』第一巻第七章 190a9 において、ある変化の例を示しながら、次のように語っている。ここで考察されているのは、教養のない人間が、教育を受け、教養ある人間へと変化する過程である。

「或る単純なものが或るなにかに成るとわれわれの言う場合、そうした生成するものどものうち、その或るものは、その生成過程を通じてその基に存続するが、他のものは存続しない。たとえば、「人間」は〔教養あらぬから〕教養あるに成ってもその基に人間として存続し、依然として人間である」

 ここでアリストテレスは、事物を二つの要素に分けて考察している。変化の過程において変化するものと、変化の過程において変化しないものである。彼の言い方に倣えば、存続するものと、存続しないもの、ということになる。この二つの要素が結合することで、全ての事物は構成されている。
 この例では、「人間」が、変化の過程で変化しないものである。教養があろうがなかろうが、人間が人間であることに変わりはない。一方で、「教養ある」という性質が、変化する要素である。「人間」と「教養ある」という二つの要素が結合することで、「教養ある人間」が成立する。
 変化しないもの、今の例では「人間」を、質料、あるいは基体と呼ぶ。そして、変化するもの、今の例では「教養ある」という性質を、形相と呼ぶ。また、質料と形相の結合体、今の例でいえば「教養ある人間」を、本質存在と呼ぶ。

 さらにアリストテレスは、形相の他に、形相ではない諸性質の存在を認めている。たとえば、教養ある人間の肌が白ければ、その人には「白い」という性質があると言える。しかしこの性質は、形相とは区別される。
 形相と質料の結合は、本質存在を形成することができる。しかし、形相以外の単なる性質と質料との結合は、許されていない。形相以外の性質が質料と結合するのは、形相を通してのみ、つまり、その性質と、本質存在との結合を通してのみである。
 本質存在という概念は、彼の哲学の中心にあるといってもよい。それは実体とも呼ばれ、形相以外のすべての性質は、実体の属性とみなされる。つまり、形相とそれ以外の性質との間には、はっきりと境界線が引かれているのである。

 しかし、その区別の基準が何であったのか、ということは、明らかとは言えない。厳密に言えば、「教養ある」という性質が形相と言えるのかどうか、ということも一つの問題である。
 次に紹介する『生成と消滅について』の記述は、この問題を考えるための手がかりを与えてくれるだろう。

2.3

 先に進む前に、新しい概念の説明をしておきたい。先ほどの、「教養ある人間」の例で説明しよう。
 教養のない人間が、教養ある人間へ変化するとき、教養ある人間が出現するのは、変化が終わった瞬間である。というのも、教育が完了しないうちは、その人はまだ、「教養ある人間」とは言えないだろうから。
 このとき、まだ教育を受けていない状態にある人間を、可能態と呼び、教育を受け終わった人間を、完全現実態と呼ぶ。さらに、教育を受けつつある人間のことを、単に現実態と呼ぶ。
 しかし、現実態と完全現実態の区別については、アリストテレス自身にとっても、曖昧なところがあったように思われる。さしあたりは、現実態と完全現実態の区別にはとらわれず、両者をまとめて現実態と呼ぶことにしたい。

(注:訳語の選択に関して翻訳者の間にぶれがあるので、注意しておく。完全現実態はエンテレケイアの訳であり、終極実現状態と訳されることもある。また、現実態はエネルゲイアの訳であり、活動実現状態とも訳される。)

 しかし、そうすると、本質存在は二種類存在することになる。現実態としての本質存在と、可能態としての本質存在である。
 可能態‐現実態という概念は、アリストテレスの哲学にとって基本的なものである。しかし同時に、これらの概念に問題があることも、彼ははっきりと意識していた。再び、先ほどの例に戻って考えてみよう。
 可能態としての本質存在とは、結局のところ、いまだ「教養のない人間」のことである。だが、「教養のある」という性質が形相なのだとすると、「教養のない人間」は、形相を持たない質料だ、ということになるのではないだろうか。いったい、質料そのものと、可能態としての本質存在とは、どこが違うのだろうか。

2.4

 この問題は、『生成と消滅について』第一巻第三章 317b19 以下において、明瞭に意識されている。少し長くなるが、理解しにくい文章なので、段落全体を引用する。

「もしも何かが生成するとすれば、明らかに、終極実現状態〔引用者注:完全現実態〕としてではなく可能状態〔可能態〕として、何らかの本質存在が存在するであろう。そして生成はそのものから起こるであろうし、また消滅するものはそのものへ変化するのでなければならないであろう。その場合、そのもののもとに、終極実現状態として、他の諸々のもののうちの何かが属するのであろうか。換言すれば、可能状態としてのみ「これ」であり、「あるもの(存在するもの)」であるが、端的には「これ」ではなく、「あるもの(存在するもの)」でもないものは、はたして、例えば、何らかの量のもの、何らかの性質のもの、何らかの場所にあるものなのであろうか。というのも、もしもそれが、何ものでもない――しかし可能状態としてはすべてのものである――とすれば、そのような仕方であるのではないものが離存可能であるという帰結が生じるし、またさらに加えて、最初に哲学に携わった人たちが最も恐れ続けてきた事態、すなわち、何ものでもないもの(無)があらかじめ存立していて、そこから生成が起こるということが結果することになる。しかし他方、〈この何か〉であること、あるいは本質存在であることは、そのもののもとに属していないけれども、先述の他の諸々のもののうちの何かは属しているとするならば、われわれが述べたように、諸性状が本質存在から離存可能であることになるだろう」

 まず注意しておくべきことは、可能態としての本質存在は、端的にはこれではなく、あるものでもない、とされていることである。つまり、可能態としての本質存在と、質料という概念が、ここでは区別されていない。そのため、本質存在という言葉の意味も、明瞭さを失っている。
 その上で、彼が言おうとしていることを理解するためには、次の問題について考えてみる必要がある。「教養ある人間」から、「教養ある」という性質を取り除けば、「人間」が残る。では、「人間」からさらに、「人間であること」という性質を取り除いたとしたら、あとに残るものは何だろうか。

 もしもそこに、「肉」や「骨」というものが残るのであれば、では、「骨」というものから、「骨であること」という性質を取り除いたとしたら、そこには何が残るのだろうか。そのようにして、性質を一つ一つ剥ぎ取っていったときに、最後に何かが残るのだろうか。それとも、そんなことは初めから不可能なのだろうか。いったい、何ものでもないもの、が存在しうるのだろうか。言い換えれば、質料は、形相から離れて単独で存在しうるのだろうか、ということである。
 もしもそれが可能ならば、われわれは、無からの生成を認めることになるだろう。形相を持たない質料は、それ自体は何ものでもない。つまり、無である。そして同時に、質料は変化の基体になりうる、つまり、何かあるものへと変化することができるのだから。

 しかし、彼の立場からすれば、それを認めることはできない。無から有は生じない、というのが、彼の哲学の基本であった。
 それゆえ彼は、同第一巻第五章 320b13-17 において、「あらゆるものにおいて、素材(質料)は離存不可能である」、「素材(質料)は、……性状なしではけっして存在しえないし、また形態なしでも存在しえない」と述べている。
 しかし、我々はもっと積極的に、「質料は形相なしには存在しない」と言い換えてもよいだろう。彼の立場からすれば、この結論は不可避である。

 つまり、様々な性質を取り除いていったときに、最後まで残る性質が、形相である。形相を剥ぎ取って、その下にある無、質料そのものを、明るみに出すことはできないのだ。
 ある意味でこの点に、後世の神学的思弁と、アリストテレス自身の立場との相違を認めることができる。彼は有の存立を認めたが、無の存立は認めなかった。しかし、有を認めたならば、無をも認めざるをえないのではないだろうか。質料に対する彼のこの態度が、どのような帰結をもたらすことになるか、これから検討しよう。

2.5

 単純物体の相互生成の考察に戻ろう。
 単純物体とは、土、水、空気、火の四元素である。そして、全ての物質は、これら四元素から構成されている。『生成と消滅について』でアリストテレスが考察しているのは、これら四元素間の変化が、どのようになされるのか、ということである。
 彼によれば、四元素は互いに変化しうる。つまり、空気が火へと変化することもあるし、火が土へと変化することもある。しかしそうだとすると、彼にとっては気がかりな問題が出てくる。
 果たして、空気が火へ変化する際に、質料としてはたらくものは何であろうか。もしも単純物体が、もっとも単純な形相であるならば、単純物体同士の変化の過程における質料は、何の形相も持たなくなってしまうのではないだろうか。
 しかし、形相なしの質料はありえない。したがって、もしも単純物体が変化しうるのであれば、その内部には、さらに他の形相が潜んでいることになる。そして、その形相が質料としてはたらいている、と考えねばならない。

 アリストテレスはそれを、基本要素と呼んだ。基本要素とは、熱、冷、乾、湿である。そして、これら基本要素の変化によって、単純物体の変化を説明したのである。
 しかし、これだけでは、根本的な解決にはなっていない。なぜなら、基本要素の質料という別の問題が生じるからである。
 たとえば、熱が冷へと変化する際に、変化の過程において存続するものが、熱の内部に求められたとしよう。つまり、熱の内部に、また別の形相が存在する、と仮定するのであれば、その場合、さらにその内部にある形相の存在を、仮定せざるをえなくなるだろう。そのようにして、一つの単純物体の中に、無限に多くの形相が仮定されることになるだろう。これは無限後退と呼ばれる困難である。このような困難を抱えた理論は、破綻していると言わざるを得ない。

 これを解決するために考え出されたのが、割符の理論である。この理論において彼は、基本要素は相互に質料となり形相となる、という考えを示した。
 割符の理論によれば、空気{熱、湿}から火{熱、乾}への変化に際して、熱はそのまま残り、湿が乾へと変化する。変化の過程において変わらないものが質料なのだから、このとき、熱が質料としてはたらいている、ということになる。
 この説明においては、形相を持たない質料そのものが、顔を出してくることはない。空気{熱、湿}から火{熱、乾}への変化に際しては、熱が湿と乾の質料となり、土{冷、乾}から火{熱、乾}への変化に際しては、乾が冷と熱の質料となる。
 この説明はとても巧妙である。しかし、本当に理にかなっていると言えるだろうか。

2.6

 割符の理論を、詳細に検討してみよう。
 まず確認しておくべきことは、それぞれの基本要素が、互いに全く異なる形相である、ということである。
 空気において、熱と湿という性質は、それぞれが本質存在として独立に存在している。にもかかわらず、空気{熱、湿}が火{熱、乾}に変化する際に、熱が質料としてはたらくのである。

 ここで、基本要素で生じている事態を、銅から銅像を作り出す過程に置き換えて考えてみよう。このとき、銅が質料であり、銅像が形相である。
 湿が乾へと変化する際に、熱が質料としてはたらきうる、ということは、銅から銅像が作られる際に、木材が質料としてはたらきうる、ということと等しい。なぜなら、熱と湿とが異なる本質存在であるように、銅と木材も、全く異なる本質存在であるから。
 また、次のように言うこともできる。乾を質料として、冷が熱へと変化するということは、人物の像という形相を質料として、銅が木材に変化しうる、ということと同じである。

 もしも、いくつかの形相が、互いに質料となり、互いに形相となる、ということが許されるのだとしたら、あらゆるものが、あらゆるものへ変化しうる、ということになるだろう。
 しかし実際には、「人間」が「教養ある」という性質の質料なのであって、「教養ある」という性質が「人間」の質料になる、ということはありえない。どうして基本要素にだけ、このようなことが許されるのだろうか。

 質料‐形相説がうまくいっていたのは、ある種の選択性のおかげである。人間が教養あるものになることはできるが、銅が教養あるものになることはできない。また、銅からも木材からも人物の像を作ることはできるが、銅像が木像に変化することはない。
 そこでは、変化可能なものと不可能なものの間に、明確な境界線が引かれていた。しかし、割符の理論は、あらゆる変化を可能にしてしまう。この理論の持つ融通性は、質料‐形相説とは相容れないものである。
 質料‐形相説を認めるならば、割符の理論は成立しえない。我々はこの認識の上に立って、議論を進めることにしよう。

2.7

 その上で、単純物体の相互生成について、再び考えてみよう。この考察を通じて、質料‐形相説そのものに困難が見いだされるだろう。
 まず、もしも割符の理論が成立しないならば、単純物体の変化について考えることと、基本要素の変化について考えることとは、全く同じ意味を持つ、ということに注意してもらいたい。したがって、ここからは基本要素について考える必要はない。
 しかし、このとき、単純物体の相互生成において、そもそも何が質料としてはたらくのか、という問題は未解決になる。

 ここで仮に、アリストテレスの意に反して、単純物体の相互変化の際に、形相を持たない質料が存在している、と考えてみよう。
 しかし、もしも、いかなる形相をも持たない質料が存在するならば、それは当然、いかなる形相の主語にもなりえないだろう。ゆえに、そのような質料が存在したとしても、それが空気の形相を持つとか、火の形相を持つとか言うことはできないだろう。したがって、それは、空気から火への変化の基体にはなりえない。
 一方で、もしも、そのような質料が存在しないならば、あらゆる質料は、形相と不可分である、ということになるだろう。その場合、空気から火への変化の際に、質料としてはたらく何ものも存在しないことになるだろう。なぜなら、空気の質料は、空気から離れることはできず、火の質料は、火から離れることはできないのだから。そしてこの場合、質料そのものが生成・消滅する、ということになるだろう。

2.8

 問題をまとめてみよう。
 アリストテレスは、変化の過程において、それ自体は変化せずに存続する何ものかがなければならない、という洞察から、質料‐形相説を導き出した。したがって、単純物体の生成・消滅の過程においても、変化の基体となるものが必要とされる。しかし同時に、それは何らかの形相でなければならない。何の形相も持たないもの、つまり無の存立は認められないから。
 ここで、もしも、変化の基体である質料そのものの生成・消滅を認めるならば、質料‐形相説自体が、根拠を失うだろう。
 しかし、もしも、質料そのものの生成・消滅を認めず、しかも質料が離在することをも認めないのだとすれば、そもそも単純物体の生成・消滅が、全く説明できなくなってしまうだろう。
 また、もしも、質料が離在することを認めるならば、それは何の形相も持たないのであるから、現に存在するいかなる事物とも、関係を持たないだろう。したがって、生成・消滅の説明とはなりえない。

 以上のことから、『生成と消滅について』において、質料‐形相説は完全に破綻している、と結論することができる。同時に、いかなる形相をも持たない質料、という意味での第一質料という概念は、アリストテレスの哲学体系の中では成立しえない、ということも明らかにされた。
 アリストテレスは、無から有が生じることを認めなかった。しかし、彼の立場を貫くならば、有から有が生じることをも、認めることはできなくなるのである。
 『中論』第二十一観成壊品にいわく、「有から有が生じることもなく、無から有が生じることもなく、無から無が生じることもなく、有から無が生じることもない」。これが諸々の事物の真実のあり方である。

2.9

 質料と形相の関係について、ここで行われた議論は、単純物体の相互生成以外の場合にもあてはまる、ということに注意してもらいたい。
 例えば、不健康な状態から健康な状態へ変化する人間について考えてみよう。不健康から健康へ変化する途中の人間は、不健康でも健康でもないのだから、この変化に関係する、いかなる形相をも持たないことになるだろう。ゆえに、形相なしには質料は存在しないのだとすれば、このときの人間は、質料ではありえない。

 人間が、「健康である」という形相を受け入れうる質料であるためには、それは、「健康である」という本質存在をあらかじめ持っていなければならない。
 本質存在から離れては質料は存在しないが、ある形相を受け入れるために、どんな本質存在を持っていても構わない、ということにはならない。特定の形相を受け入れるためには、その形相を受け入れることができる本質存在に属する質料でなければならない。
 人間が健康になることができるためには、それははじめから、「健康である」という形相に何らかの形で属していなければならない。しかし、健康でも不健康でもない人間が、どのような形で健康と関係しうるのだろうか。つまり、この変化の過程において、人間は「健康であること」の質料とはなりえないのである。
 これを一般化すれば、あらゆる変化の過程において、質料は存在しない、と言うことができる。

 ここでもしも、不健康と健康の間に、無数の形相が存在するのだと考えるならば、その場合、無限に多くの形相が、現実に存在することになるだろう。また、それら無数の形相間の移り変わりは、どのように説明されるのだろうか。
 このように考えても、質料‐形相説の不備は明らかである。

2.10

 以上の考察に対して、次のように反論する者がいるだろう。
 空気が火に変化しうるのは、空気のなかに、可能的に火が存在しているからである。その可能的な火が現実態となったときに、火が生じ、空気が消滅するのだ、と。
 しかし、そうだとすると、空気は可能的に火であり、水であり、土であることになり、結局、一つのものが、可能的に他のあらゆるものである、ということになるのではないだろうか。
 それに対して彼は言うだろう。それでも矛盾はない。空気は確かに、可能的に他の全ての元素であるが、それが現実に火へと変化するのは、適切な作用因が存在するときだけであるから、と。

 我々はここで再び、可能態と現実態について考察しなければならない。この考え方は、質料‐形相説では説明しきれない、ものの変化にまつわる困難を、見事に解決してくれるのである。可能態‐現実態について、少しおさらいしよう。
 ここでは、運動する物体を例にとって考えてみよう。ある物体が、ある場所(A地点)から別の場所(B地点)へ移動するとし、移動し始める前には静止していたものとしよう。
 このとき、移動前の静止している間においても、この物体は、移動する能力を持っていた、と考えることができる。この能力のことを可能態という。そして物体が動き始めたとき、可能態は現実態へと移行し、実際に運動が生じることになる。ここで、動き始めるきっかけとなるものが、作用因として想定されている。

 以上が、可能態‐現実態という考え方の、基本的な枠組みである。基体に存する能力が可能態にあるうちは、変化は生じず、それが現実態となったときに、変化が生じる、ということである。
 また、変化の最終地点(B地点)における物体の状態を、単に現実態と呼び、運動過程にある物体の状態を、完全現実態と呼ぶこともある(『自然学』第三巻第二章)。しかしこの二つの語は、逆の意味で用いられることもあるように思われる。曖昧さの残る用語であり、ここでは特に両者の区別に注意を払わない。

2.11

 この考え方の問題点は、可能態がいかなるものであるのか判然としない、ということである。
 たとえば、土が火に変化する場合、土が可能態であり、火が現実態である、と言われる。しかし、土が火の可能態である、と言う場合、可能態としての火が、土そのものであるのか、それとも、土の中に、可能態としての火が含まれているのか、はっきりしない。
 また、可能態が現実態に移り変わるとき、何が起きているのだろうか。そもそも、現実態という言葉が、変化の過程そのものを指しているのだとすると、可能態が現実態に変化する、と言うことはできない。それは、変化が変化する、と言うのと同様に不合理な表現である。可能態と現実態は、一体どんな関係にあるのか。

 以上のような疑問が、両概念に関して提起されうるだろう。このような概念が、果たして矛盾なく成立しうるだろうか。可能態‐現実態という考え方そのものに、問題があるのではないか。
 次のように考えてみると、それははっきりする。そもそも、可能態と現実態は、同時に存在するのだろうか。それとも、別の時間において存在するのだろうか。

2.12

 もしも、可能態と現実態とが、常に異なった時間において存在し、全く重なり合うことがないならば、我々は、全然運動しないものを、運動することの可能なもの、と呼んでいることになるだろう。なぜなら、それが運動するのは、現実態にあるときであり、したがって、可能態にあるときには、決して動かないのだから。
 では、もしも、可能態と現実態とが、同時に存在するとしたら、どうなるだろうか。この場合、一つの物体に、二つの運動が同時に存在することになるだろう。
 つまり、ある物体が現に動きつつ、しかもそれが、何らかの運動をすることが可能であるとするならば、現実の運動と、可能的な運動という、二種類の運動が同時に存在することになるだろう。そして、運動が二種類あるならば、それぞれの運動に対応して、基体も二つ存在しなければならないだろう。したがって、一つの実体が二つである、ということになるだろう。しかし、これは不合理である。

 このことを、単純物体の相互生成を例にとって、もう一度考えてみよう。
 もしも、火の可能態と、火の現実態が、全く別々に存在するならば、火の可能態が、火の現実態に変化することはありえないだろう。なぜならこの場合、変化の過程で存続するものが何もないのだから。
 一方で、現実に火であるものが、同時に可能的にも火であるならば、ここに、二つの火があることになるだろう。
 例えば、土が、火の可能態であるとしよう。このとき、火の現実態と火の可能態とは、明らかに異なるものである。ゆえに、それらが同時に、同一の基体において存在する、ということはありえない。つまり、もしも、火の可能態と火の現実態が同時に存在するならば、土から火が生成したとき、土と火が同時に存在する、という不合理な結論が導かれるだろう。

2.13

 以上のことから、可能態と現実態とは、同一の時間においても、異なった時間においても、存在しえないことが明らかになった。しかし、それ以外のいかなる仕方で、これらのものが存在しうるだろうか。

 可能態と現実態という概念は、それぞれ独立には成立しないものである。可能態は現実態を予想し、現実態は可能態を予想している。いま、これらのものを別々の存在として扱ったことから、不合理が生じたのである。
 しかし、可能態と現実態とが、独立に存在しえないとすれば、そもそも事物の変化を説明できないことになる。なぜなら、変化の出発点は可能態であり、それ自体が一つの実体でなければならないからである。可能態が、それ自体として存在しないならば、変化の出発点は存在しなくなる。
 もしも可能態が存在しないならば、現実態も存在しないことになるだろう。可能的に火であるものがないならば、現実に火となるものが存在しなくなるからである。
 また、もしも現実態が存在しないならば、可能態も存在しないだろう。現実に火であることがありえないならば、どんなものも火に変化する可能性を持ちえないのだから。

 もしも可能態が一つの実体であるならば、その本質が変化することはありえないだろう。しかし、もしも可能態が実体でないならば、それは存在しないものであることになる。そこにいかなる変化がありうるだろうか。
 可能的に火であるものは火にならず、また、可能的に火でないものも火にはならないのだとすれば、それ以外の何が火になるのか。
 要するに、可能態が実体であるとしても、実体でないとしても、変化はありえない。ゆえに、可能態も現実態もそれらの間の変化も、すべて成立しない。
 可能態は現実態に依存して存在し、現実態は可能態に依存して存在する。これらのものは互いに依存しあっており、したがって、どちらもそれ自体で存在するのではない。以上のことから、これらのものが名前だけのものであり、空であることが知られる。

 例えば、ある人が、屋根に上ろうとしているとしよう。梯子があれば、その人は屋根に上ることができるが、その梯子は、屋根の上に置かれているものとしよう。このとき、彼が屋根に上るためには、梯子を手に入れる必要があり、また、梯子を手に入れるためには、屋根に上る必要がある。
 このように、互いが互いの条件になっているとき、どうしてこの人は、屋根に上ることができるだろうか。彼は、梯子を手に入れることも、屋根に上ることもできないだろう。
 可能態と現実態の関係も、これと同様である。それらは、互いが互いの条件となっているので、実際には可能態も成立しえないし、現実態も成立しえない。どちらも幻のようなものである。

 以上の議論は、『中論』第五観六種品と、同第二観去来品を参考にしている。アリストテレスにおける「形相」と「質料」は、龍樹における「相」と「可相」に対応し、「可能態」と「現実態」は、「去者」と「去法」に対応すると考えられる。
 対論者の前提を利用して、その結論を破壊すること。それが、龍樹によって確立された中観派の基本理念である。

3 プラトン

 以上の議論によって、アリストテレスの哲学体系に含まれる矛盾が、明らかになったと思う。我々は次に、アリストテレスにおいて現れたものと同様の困難が、プラトンの所説にも見出される、ということを指摘したいと思う。
 我々の用いる手法は、これまでと変わらない。まず、相手の論点を整理し、次に、それを批判的に検討してゆくのである。なお、第2節の議論は第4節の議論と直接つながっているので、本節を飛ばして読んでも、本論文の結論を理解する上では問題はないはずである。

3.1

 はじめに、プラトンにおける「能力」と「はたらき」の取り扱いを確認しよう。以下の議論において我々が参照するテキストは、彼の主著である対話篇『国家』に限られる。
 『国家』において、プラトンは次のように述べている。

「われわれはいろいろの〈能力〉というものを一つにまとめて考えて、存在するものの一種族としてとらえ、これを、『われわれや他のすべてのものをして、それぞれがなしうるところのことを、なしうるようにさせる力』であると言うことにしよう。たとえば、視覚や聴覚などは、ぼくの言うそのような〈能力〉のうちの一つである。」(『国家』第五巻第二十一章 477C)

「それぞれのものの〈はたらき〉とは、『ただそれだけが果たしうるような、あるいは、他の何よりもそれが最も善く果たしうるような仕事』ではあるまいか」(同第一巻第二十四章 353A)

「見ることや聞くことは目や耳の〈はたらき〉である。」(同第一巻第二十三章 352E)

 以上の引用箇所を、視覚に注目してまとめると、次のようになるだろう。「われわれ」は、「見る能力」を持つことによって、「見るはたらき」をなしうるようになる、と。
 ここで、「能力」を「可能態」に置き換え、「はたらき」を「現実態」に置き換えて考えるならば、第2節と同様の議論が、プラトンの所説に対しても当てはまることは明らかであろう。
 なお、『中論』第三観六情品も参照のこと。

3.2

 次に、『国家』第六巻における善のイデアの説明について、その中でも特に太陽の比喩について、詳しく検討してみよう。プラトンが自身の思想の核心部分について、これ以上に詳しく語った箇所はない。我々はこの部分を手掛かりにして、彼の思想の本質を抉り出し、批判してゆきたいと思う。
 まず、重要な箇所を抜き出して、プラトンの所説をまとめよう。

「思惟によって知られる世界において、〈善〉が〈知るもの〉と〈知られるもの〉に対して持つ関係は、見られる世界において、太陽が〈見るもの〉と〈見られるもの〉に対してもつ関係とちょうど同じなのだ」(『国家』第六巻第十九章 508C)

 思惟によって知られる世界とは、いわゆるイデアの世界である。我々は、自分の中に存在する認識能力によって、イデアを把握することができる。ここで、「知られるもの」はイデアのことであり、「知るもの」は、われわれ個々の人間のことである。見られる世界とは、感覚の世界である。感覚器官を使って知ることができる対象は、認識能力の対象であるイデアとは、厳密に区別される。

3.3

 プラトンは、この箇所において、我々はどのようにしてイデアを認識しているのか、という問題に答えようとしている。
 プラトンにとって、イデアを認識する能力とは、全ての人間に与えられた、普遍的な能力の一つである。その能力がいかにして機能するのか、ということを、視覚能力と比較することで、理解しようとしているのである。

 イデアとは、ものの本質のことである。それは、ものの感覚的な性質とは区別される。
 たとえば氷ならば、冷たい、硬い、透明、といった感覚的な性質を持っている。しかしそれとは別に、我々は、氷を見たときに、あるいは触ったときに、これは氷である、という認識を持つ。この、これは氷である、という認識のことを、認識作用、あるいは思惟と呼ぶ。そして、その認識の対象となる、ものの本質のことを、イデアと呼ぶ。
 このとき、それが氷である、という認識は、たしかに、そのものの感覚的な性質とは区別できるのである。硬いという性質を持つものならば、氷ではなく、石かもしれない。透明という性質を持つものならば、氷ではなく、水晶かもしれない。それが何であるかということと、それが持つ感覚的な性質は、別のものである。にもかかわらず、我々は、ものの本質を瞬時に理解することができる。

 プラトンは、この認識作用という能力を、感覚作用から独立した、しかもそれと並行するものとして捉えた。なぜなら我々は、視覚によっても触覚によっても、全く同様に、それが氷である、という認識を持つことができるからである。したがって、あるものが何であるか、という認識は、感覚から独立していると言える。
 しかしながら、その認識は対象に依存しているのである。我々はそれを見た瞬間に、ほとんど強制的に、それが氷である、という認識を持つ。その認識を、あとから打ち消すことはできない。ものの認識には、感覚作用と同じくらいに強制力がある。ゆえにプラトンは、ものの認識を、感覚作用の一種として理解したのである。もちろんそれは、思惟と呼ばれ、他の感覚作用とは異なる価値が与えられた。しかし彼が、それを感覚作用と類比的に理解していたことは明らかである。

 このような理由で、彼は、認識能力を視覚能力と比較して、その性質を明らかにしようとしたのである。では、それがどのように行われたのかを見ていこう。
 プラトンは次のように考えを進める。我々がものを見るためには、光源が必要である。真っ暗な場所では、ものを見ることはできない。そこで、イデアを認識する能力を、視覚と対比させて理解するならば、視覚における光源に相当するものを、イデアを認識する能力においても、仮定しなければならない。そのようにして、善のイデア、という概念が発見された。
 プラトンはこの概念を、最も強力な光源である太陽と比較することによって理解しようとした。以下、『国家』の記述を追いながら、これを確認してみよう。

3.4

「認識される対象には真理性を提供し、認識する主体には認識機能を提供するものこそが、〈善〉の実相(イデア)にほかならない」(同 508E)

「それ〔善のイデア:引用者注〕は知識と真理の原因(根拠)なのであって、……それ自身認識の対象となる」(同 508E)

「目は自分のもつ機能を、太陽から注ぎこまれるようにしてまかなわれながら、所有している」(同 508B)

「太陽のほうもまた、それがそのまま視覚であるわけではないが、しかし視覚の原因であり、視覚そのものによって見られる」(同 508B)

「目というものは……これを……夜の薄明かりに蔽われている事物に向けるときには、ぼんやりとにぶって、盲目に近いような状態となり、純粋の視力を内にもっていないかのようにみえる……けれども、思うに、陽光に明るく照らされている事物であれば、はっきりと見えて、同じその目に純粋の視力が宿っていることが明らかになる」(同 508C, D)

 ここで対比されているのは、人間の持つ視覚能力と、イデアを認識する能力である。「見るもの」は、「見る能力」によって「見られるもの」を見ることができる。その際に「太陽」は、「見るもの」に「見る能力」を与え、同時に「見られるもの」に「見られる能力」を与える。つまり、太陽の光に照らされることで、事物がはっきり見えるようになる、ということである。
 同様に「知るもの」は、「知る能力」によって「知られるもの」を知ることができる。その際に「善のイデア」は、「知るもの」に「知る能力」を与え、同時に「知られるもの」に「知られる能力(真理性)」を与える。
 ここで注意すべきことは、われわれが視覚能力によって太陽を見ることができるように、認識能力によって、善のイデアを知ることができる、とされていることである。
 また、次の部分も重要である。

「太陽は、見られる事物に対して、ただその見られるというはたらきを与えるだけでなく、さらに、それらを生成させ、成長させ、養い育むものである……ただし、それ自分がそのまま生成ではないけれども」(同 509B)

「同様にして、認識の対象となるもろもろのものにとっても、ただその認識されるということが、〈善〉によって確保されるだけでなく、さらに、あるということ・その実在性もまた、〈善〉によってこそ、それらのものにそなわるようになる……ただし、〈善〉は実在とそのまま同じではなく」(同 509B)

 ここで述べられているのは、次のようなことである。太陽には動植物を育む力がある。ゆえに、善のイデアが太陽と類比的な存在であるならば、善のイデアにも、善のイデアによって照らされる、諸々のイデアを育む力があるはずだ、ということである。
 また、前半の部分は、太陽が、見る主体に見る能力を与える、と言われていたことの説明にもなっている。つまり、視覚能力を持つものとしての人間も、見られるものと同じように、太陽によって育まれている、とプラトンは言いたいのだろう。
 問題は後半の部分である。

 第一に、認識の対象は、認識される能力だけでなく、その実在性をもまた、善のイデアから与えられている、と言われている。

 第二に、善のイデアは認識の対象でありながら、それ自体は実在ではない、ということも明らかにされている。

 ここが、プラトンによる善のイデアの規定のなかで、最も重要な箇所である。この二つの規定を順番に確認しよう。

3.5

 まず、認識の対象、つまり諸々のイデアが、善のイデアによって実在性を与えられる、という部分を検討しよう。
 そもそも、諸々のイデアが、善のイデアによって実在性を与えられるためには、それ以前には、それらのものは実在性を持っていなかったのでなければならない。というのは、もしも、それらのものがあらかじめ実在していたのであれば、そこにさらに実在性を与えることは不可能であるから。
 そこで、もしも、まだ実在していないものがどこかにあるならば、それに実在性を与えることもできるだろう。しかし、そういうものが実在しないのに、どうしてそのものに実在性を与えられるだろうか。
 つまり、実在するものに実在性を与える、というのも理に合わないし、実在しないものに実在性を与える、というのも理に合わない。しかし、それ以外の何に実在性を与えることができるのか。
 よって、第一の規定が不合理であることは明らかである。

3.6

 次に、善のイデアが認識の対象でありながら、それ自体は実在ではない、という部分を検討しよう。
 ここで、実在という言葉の使い方に注意する必要がある。プラトンにおいては、実在とはイデアのことであり、非実在とは感覚の対象のことである。したがって、イデアを認識する能力とは、実在を認識する能力でもある。

 いま問題にすべきは、善のイデアは、実在を認識する能力と同じ能力によって認識されるのか、それとも別の能力によって認識されるのか、ということである。
 もしも善のイデアが、実在を認識する能力と同じ能力によって認識されるのだとするならば、その能力は、実在ではないものをも認識しうるものである、ということになるだろう。したがって、我々はこの認識能力によって、実在だけでなく、非実在をも、認識してしまうことになるだろう。このとき我々は、実在と非実在とを、どのようにして区別すればよいのだろうか。
 一方で、もしも、善のイデアを認識する能力が、実在を認識する能力とは別のものであるならば、善のイデアを認識するために、実在の認識以外の能力が、必要となってしまうだろう。しかしながら、太陽は、種々の視覚対象を見るのと同じ能力によって、見ることができるのである。したがって、このとき、そもそも太陽の比喩が成立しなくなるだろう。

3.7

 ここで、次のように主張する者がいるかもしれない。
 善のイデアは、諸々のイデアを認識するのと同じ能力によって、認識されるのである。しかしその能力は、諸々のイデアを、実在するものとしてではなく、単にイデアとして認識するのであり、その限りにおいて、善のイデアを認識することもできるのだ、と。何かそのような疑義があるかもしれない。
 もしもそうであるならば、その認識能力を、上述したような二つの部分に分けて考察することには、何の不都合もないであろう。したがって、この場合でも、上述の議論はそのまま当てはまるのである。
 太陽と、太陽によって照らされるものとの間には、何の区別も設けられていない。しかし、善のイデアと諸々のイデアの間には、非実在と実在、という区別が設けられているのである。この非対称によって、太陽の比喩は、比喩として成り立たなくなっている。

 あるいは、次のような考えを持つ者がいるかもしれない。たしかに、善のイデアは実在そのものではないが、しかし、実在でないというわけでもないのだ、と。
 そのように考える者がいるならば、一体それが何であるのか、具体的に説明して欲しい。まさにそれを説明するために、プラトンは太陽の比喩を持ち出してきたのである。したがって、今あなたの主張を認めるならば、我々の議論はどうどう巡りに陥ってしまうだろう。

 しかしまた、善のイデアは実在であり、かつ非実在である、ということもありえない。
 まず、それが実在であるという部分は、プラトン自身の説明に反するし、また、非実在であるという部分から、先程と同じ困難が生じることになる。つまりこの場合、二つの困難が同時に生じることになるだろう。

 以上の議論によって、第二の規定は不合理である、ということが明らかにされた。
 よって、善のイデアに関する二つの規定は、どちらも共に不合理である、と結論できる。
 したがって、太陽の比喩によって理解する限りでは、善のイデアという概念は成立しえない。善のイデアが存在する、という考え自体が誤りである。

3.8

 我々はここから、プラトンが、なぜこのような間違いを犯したのか、ということを考察しようと思う。議論の見通しをよくするために、問題を、善のイデアと、我々の認識能力との関係に絞ることにしよう。

 太陽の比喩によって述べられていることは、善のイデアが、我々に、それ自身を認識する能力を与えている、ということである。しかし、そのためにはまず、善のイデア自身が実在していなければならない。というのは、実在しないものが、我々に何らかの能力を与えるということは、理に合わないから。
 しかし、もしもそうであるならば、次のような疑問が生じる。実在する善のイデアが、我々にそれ自身を認識する能力を与えているのに、どうして我々は、それを認識しないでいることができるのだろうか。というのも、プラトン自身が、善のイデアを認識できない人間がいる、ということを認めているのであるから。
 これは明らかに不合理である。いったい何が、我々の認識を妨げているのだろうか。

 これに対して、次のように答える者がいるかもしれない。
 例えば、あなたが、陽の光の射し込まない、真っ暗な洞窟の中にいるとしよう。その場合、たとえあなたが正常な視力を持っていたとしても、事物を見ることも、太陽を見ることもできないだろう。それと同じ理由で、認識能力があったとしても、善のイデアを見ることができない者もいるのだ、と。
 では、その場合、太陽の比喩における洞窟に相当するものは、善のイデアにおいては何であるのか。洞窟の中でものが見えないのは、壁や天井にさえぎられて、太陽の光が届かないからである。では、善のイデアにおいては、何が善のイデアのはたらきをさえぎっているのだろうか。
 プラトンは、それに対して何の説明も与えていない。そのように考える者は、イデアの世界と感覚の世界とを、混同しているのではないだろうか。

 例えば、我々が太陽に背を向けているときには、太陽を見ることはできない。それは、我々の肉体が、視覚作用の障害となっているためである。では、我々の認識能力が、善のイデアを見ることができないのは、いったい何が障害となることによってなのか。そこにいかなる障害がありうるのか。
 また、太陽に背を向けているときでも、振り返れば、太陽を見ることができる。もしも認識能力の主体、つまり我々の魂が、善のイデアを見るために、向きを変えなければならないのだとすれば、イデアの世界にも変化が存在することになってしまうだろう。しかし、そのようなことがどうしてありうるだろうか。

3.9

 さて次に、また別の解決を思い付く者がいるかもしれない。それはこういうことである。
 例えば、闇の中に壺が置かれているとしよう。暗闇の中では、我々はその壺を見ることができない。しかし、太陽に照らされると、見えるようになる。それと同様に、諸々のイデアは、善のイデアの真理性に照らされることによって、認識されうるようになるのだろう。では、善のイデアそのものは、どのようにして認識可能になるのだろうか。
 それは、善のイデアの真理性によって、善のイデア自体が照らされることによって、ではないだろうか。それは、自分の能力によって、自分自身を照らすことで、認識可能になるのである、と。

 我々はこの説明に対しても、太陽の比喩に戻って、批判を加えねばならない。
 はじめに太陽によって照らされていないときには、闇の中の壺は見えない。しかし、あとになって太陽に照らされると、見えるようになる。
 それと同じように、もしもはじめに、見えない太陽というものが闇の中にあったならば、あとで照らされて、見えるようになることもあるだろう。しかし、実際はそうではない。つまり、太陽は自分自身を照らしているわけではないのである。ゆえに、この説明も正しくない。

3.10

 そもそも、いったい太陽は何を照らしているのだろうか。太陽がものを照らすとき、そこでは何が起きているのだろうか。
 そのとき、闇が取り除かれているのである。光が照らすということは、闇を破るということである。しかし実際には、光の中にも、光があるところにも、闇は存在しない。

 そもそも、闇のある場所とは、どのようなところだろうか。
 それは、光が存在しない場所である。というのは、闇のなかに光があるはずもなく、また、光のなかに闇があるはずもないのだから。我々は、光のない場所を闇と呼び、闇のない場所を光と呼んでいるのである。
 つまり、光があるところには、その光によって照らされるべき闇は、存在していない。それなのに、光はいったい何を照らすのであろうか。
 既にある光ではなく、いま現に照らしつつある光が、闇をしりぞけるのだろうか。
 しかし、その考えも正しくない。まだ闇に到達していない光が、どうして闇を取り除くことができるだろうか。
 もしも光が、闇に到達せずに闇を取り除くことができるのならば、ここにある光が、世界中の闇を滅ぼしてしまうだろう。

 また、もしも、光と同じように闇が存在するのだとすれば、光に他のものを照らすはたらきがあるように、闇にも他のものを暗くするはたらきがあるはずだろう。しかし、実際には、そのような現象は観察されない。
 したがって、闇は存在しない。闇が存在しないのであれば、光も存在しないだろう。光が照らすべき何者も存在しないのだから。
 結局、どのように考えてみても、光の存在を認めることはできない。文字どおり、光は存在しない。

3.11

 我々は今まで、太陽の比喩の、比喩としての側面だけを扱ってきた。しかし、本当の問題は、プラトンの視覚に対する理解そのものにあったのである。
 プラトンが視覚を特別視するのは、「見るもの」と「見られるもの」の他に、第三の要素として「光」が介在している、と考えたためであった。しかし、それこそが彼の思い込みだった。そしてこの考え方は、近現代の科学的な思惟にも大きな影響を与えてきたのである。

 光の実在を確かめる方法は存在しない。物理学的な観点から言っても、光の実在性は非常に疑わしいものである。
 光は存在しない、という仮定のもとに、プラトンの考察をやり直してみれば、イデアを認識する能力に対する、よりよい理解が得られるかもしれない。そのさいに、イデアの認識作用を感覚作用の一つとして整理するならば、仏教における六識十八界の理論が得られるだろう。

3.12

 もしも、イデアなる世界が存在するならば、イデアならぬ世界も存在するだろう。しかし、もしも、イデアのみが存在であるならば、イデアならぬ世界は存在しないことになるだろう。
 したがって、あらゆる存在者はイデアであることになろう。このとき、イデアでないものがどこに存在するだろうか。この世界の住人は、そもそもイデアという概念を持たないだろう。
 また、もしもイデアが存在しないならば、何も存在しないことになるだろう。というのも我々は、存在するものをイデアと呼んだのだから。これは単に不合理である。
 したがって、イデアが存在するという考えも、存在しないという考えも、同様に誤りである。
 諸々のイデアと感覚的な事物は、相対的なものである。イデアがなければ、移ろいゆく事物もありえないし、移ろいゆく事物がなければ、イデアもありえない。このとき、この二つのものがどうして成立するだろうか。感覚的な事物も、諸々のイデアも、どちらも幻のようなものである。

 例えば、鏡に映すことで、我々は自分の姿を見ることができる。しかし、それはただの映像であり、真実には存在しない。そのように、諸々のイデアは、感覚の上に映し出されることで、知ることができるようになるが、真実には全く存在しない。
 我々は、鏡によらなくては、自分の姿を見ることができない。同じように、感覚によらなければ、イデアを知ることはできないのである。そして、イデアの世界が存在しないならば、感覚の世界も存在しないだろう。種子が幻であるなら、本物の芽が生えるはずもないのである。

4 空の論証

4.1

 アリストテレスは、自分の足下に地面が存在することを、確固として疑っていなかった。しかし、それは誤りであった。彼の哲学には基盤など存在しない。それは、虚空の上に現れた幻の城のようなものである。

 一般的に言って、形相には、形相を形相たらしめる本質が欠けている。例えば、「健康であること」は、健康であるという性質を持たない。なぜなら、ある人間が健康である、ということはあっても、「健康であること」が健康である、ということはありえないからである。しかし、もしも、形相が本質を持たないのだとすれば、なぜそれを形相と言うことができるのか。
 形相を離れては質料はありえないし、質料を離れては形相はありえない。もしも形相が実体であるとするなら、質料は必要ないであろう。また、もしも質料が実体であるとするなら、形相は必要ないであろう。ゆえに、質料も形相も、それだけでは実体ではない。
 例えば、想像の中で種子に水をやっても、現実に芽が生えることはないだろう。それと同じように、もしも、質料も形相も実体を持たないのだとすれば、両者の結合によって、どうして実体が生じるだろうか。
 しかしながら、質料と形相とを離れて、他のいかなるものが実体でありえようか。

 したがって、どのように考えても、実体は存在しない。実体が存在しないゆえに、実体に述語さるべき諸々の性質も存在しない。このようにして、あらゆる存在が否定される。

4.2

 およそ、何かが存在する、という考えはすべて誤りである。それが観念や個物に関することであれ、知覚や魂に関することであれ、あるいは他の何に関することであれ、同様である。したがって、何かが存在する、ということに関して明確な理解に到達しうる、という考えもまた誤りである。

 敢えて言うならば、変化だけが存在する。実体と呼ばれるものは、変化そのものの断面にすぎない。それは影のようなものである。しかし、変化する何物も存在しないのであってみれば、変化が存在する、と言うこともまた誤りである。
 また、何かが存在する、ということがありえないのだとすれば、何かが存在しない、ということもありえないだろう。なぜなら、非存在は存在に対立するものであり、存在に依存しているのだから。

 このような真理は、言語を越えていると思われるかもしれない。言葉というものは、基本的に存在に関するものであるから。
 しかし、例えば、目的地までの道すじを、目印を使って示すことができるように、真理に到る道すじを、言葉によって示すことは可能である。真理そのものは言語によって表現されえないとしても、それはやはり、真理の記号である。

4.3

 質料と形相による生成変化の説明は、以上の議論によって批判されたこととしよう。では、これ以外のどのような思想が、事物の変化を説明できるだろうか。
 西洋哲学の枠組みの中では、原子論がその候補として挙げられるだろう。しかし、これに関しては、既に別の場所で批判されている。そして実際のところ、これら以外には、事物の変化を説明できる思想はないと思われるのである。
 何らかの存在を定立する立場からは、事物の変化を記述することはできない。それを理解するためには、空の立場による他はない。ゆえに、空は絶対的な真理である。

 例えば、ヘーゲルの思想が、牛乳からヨーグルトへの変化を説明できるだろうか。たとえそれができたとしても、アリストテレスの説明の方が優れているに違いないと思われる。しかし、それも不十分であることが既に示された。
 いったい、我々の考えていることは無意味なことだろうか。事物の変化を説明するということは、取るに足りないことなのだろうか。
 私は、そうは思わない。というのも、人間の精神こそが、このような変化によって成り立っているからである。変化を離れては、人間の精神はありえない。しかし、哲学はそれを全く説明できないのである。
 ここで問題となっていることが、本質の変化であるということを忘れないでほしい。あるものが、それとは本質的に異なるものへ変化するという事態を、どのように理解するかという問題である。
 これを、因中有果の考えによって説明することはできない。しかし、始めと終わりは何らかの関係を持っているのだから、因中無果と言うこともできない。

 結果は原因の中にあるのでもなく、ないのでもない。そもそも、原因と結果が独立に存在する、と考えたことが誤りであった。あらゆるものはそれ自身の本性を持たず、互いに関係し合っている。そう考えてはじめて、この問題を解くことができる。
 そしてこの考え方は、哲学的思惟と言われるものの殆んど全てと、そして日常的な言語活動とも、鋭く対立するのである。
 この問題に関しては、科学も例外ではない。何らかの存在に執着するという点では、科学は哲学と変わりがない。科学者は、変化する事物の中に同一性を求める。しかしそれは、本当の意味での変化を否定することに等しいのである。

4.4

 変化の過程においては、主語と述語の関係は成立しえない。このことはすでに、牛乳とヨーグルトを例として説明された。
 ゆえに、ものの変化を、論理学によって説明することはできない。なぜならば、論理学において扱われる命題はすべて、主語と述語を持つ文章によって表現されるからである。
 しかしながら、この世界には、変化しないものなど一つもないのである。ゆえに論理学は、この世界に現実に存在する何物をも、表現することはできない。それは無意味な言葉遊びにすぎない。

4.5

 空の立場においては、それ自身の本質を持つものとしての、善と悪は否定される。善悪があると考えるのも誤りであり、ないと考えるのも誤りである。この道理を正しく見る者は、来世を恐れることがない。彼の心は全き平安のうちにあるだろう。

 もしも善なるものが存在するならば、それは生じることも滅することもないだろう。それゆえ、善なる行いが新たに生じることも、滅びることもなくなるだろう。
 善なるものがそれ自体では存在せず、空なるものであるからこそ、個々の善なる行いが、生じ、滅するということがありうるのである。
 この空性を否定するものは、善悪の行いも、その報いをも否定することになるだろう。そのような者は、この世においても、かの世においても、いかなる望みも叶わないだろう。

5 啓示宗教について

 さて、以上の考察によって我々は、ギリシャ哲学と西洋哲学のすべてを論破したことになる。ここで取り上げなかった思想に関しても、これまでに用いたのと同様の手法によって、否定することができるだろう。

 次に問題となるのは宗教である。よく知られているように、キリスト教の神学はギリシャ哲学に多くを負っている。しかし、ギリシャ哲学は既に否定されたのだから、当然、キリスト教神学も否定されたことになる。
 ここではキリスト教を中心として、啓示宗教について、私が思うところを述べる。啓示宗教とは、預言者によってもたらされた神の知識に基づく信仰である。

5.1

 そもそも、預言者たちは、どのようにして神を知ったのか。
 もしも彼らが、彼ら自身の眼によって神を見たのであれば、神は、この世界の内にある存在者だ、ということになるだろう。
 それに対して、あなたは次のように言うだろう。預言者は、肉体の眼によってではなく、魂の眼によって、神を見たのである。そして、普通の人間は、肉体が障害となっているために、神を見ることができないのだ、と。

 しかし、いま仮に、魂の眼が、肉体の眼と異なっているとしよう。その場合、魂の眼によって対象を見るときに、肉体が妨げとなるはずはないだろう。肉体に妨げられるのは、肉の眼だけであるから。
 それにも関わらず、魂の眼が対象を正しく認識できないのだとすれば、それは、肉体が障害となっているためではなく、無知が障害となっているためであろう。
 では、無知とはなんだろうか。

 この世ならざるものが存在し、また、それを認識する方法がある、と考えている者がいる。その考えにこだわることによって、彼は自分自身を責め苛み、苦しめているのだが、その苦しみの原因に全く気が付いていない。
 それが無知であり、こだわりの放棄が、正しい認識である。これが仏の教えである。

5.2

 イエスは、道徳の果報は死後においてもたらされる、と言った。地上は悪徳の国であり、義の国は天上にある。正義を為した人は、死後には栄光を与えられるが、現世においては屈辱に耐えねばならない、と。
 しかし、それは誤りである。真実においては、正義の人には、天上においてだけでなく、地上においても、同じように栄光が与えられるのである。彼の言葉は真実を全く伝えていない。
 実際には、地上における力と正義は無関係である。

 権力のある者が正義を持っている場合もあれば、
 権力のある者が正義を持っていない場合もある。
 権力のない者が正義を持っている場合もあれば、
 権力のない者が正義を持っていない場合もある。

 イエスには、権力と不正義を見分ける能力がなかった。彼には知恵が欠けていた。

5.3

 もしも、あなたに神が認識できないのだとすれば、ジハードはどのようにして正当化されるのか。もしもあなたが、神の意志を知らずにジハードを行っているのだとすれば、あなたの行いは狂人とどう違うのか。
 聖書やコーランの神を信じることは、大きな間違いである。その神は暴力的すぎる。

5.4

 自分の命が大切だと思うから、争いが生まれる。
 家族の命が大切だと思うから、争いが生まれる。
 同胞の命が大切だと思うから、争いが生まれる。
 命よりも大切なものがあると考えるならば、争いは止む。それが涅槃である。
 永遠の命を求めてはならない。それは地獄の門である。

5.5

 人は、生まれによって預言者となるのではなく、行いによって預言者となる。ある者が預言者と呼ばれるのは、彼が神を見たからではなく、その言葉と行いが立派だったからである。
 我々の信仰は、理性と道徳に基づいていなければならない。真実の信仰とは、正しい認識によって行動することであり、思い込みによって行動することではない。
 仏の言葉は理性に基づき、また、そのように行動することを人に勧めている。それゆえに、耳を傾けるつもりのある者は、仏の言葉をよく聞き、よく考え、よく学ぶべきである。それは不死に至る道である。

5.6

 では、いまだに仏法を尊重しない人々がいるのは、どうしてだろうか。
 彼らは、自らの傲慢さゆえに、他人の言葉に耳を貸そうとしない。そのために、永く無知のままに留まっているのである。彼らは、自分が正しいと思うものを信じ、自分が信じるものを正しいと考えている。そのような者どもに、何を言っても無駄である。彼らにとっては、あらゆる出来事が、自分の正しさの証拠となるのだから。
 自らの誤りに気付かない者は、そのせいで自分が不幸な目にあっても、その原因を知ることなく、すべての原因を自分の外に求めようとする。なぜなら彼にとっては、自分が正しいと信じることが、正しいことであるから。これでは、正しくない者は一人もいなくなるだろう。

 愚かな者どもは、真実があることを知らない。真実に照らして、自らを省みることがない。そのために、自らの愚かさに気付くこともない。彼らのためにこそ、仏は説いた。

 すべての真実は、すでに如来によって発見されている。
 あなた方は一体何を探しているのか。

(終)

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