科学と信用

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最近は、科学に対する不信が広まっているようである。放射性物質によって汚染された水も適切に処理すれば安全だ、と言っても、科学者の言うことは信用できない、という反応が返ってきたりする。

しかし、放射性物質が危険であるという知識も、科学者によってもたらされたものではないのか。放射性セシウムを含む水が危険であるという知識は、その水を見ただけでは得られないだろう。

つまり、科学は信用できない、という人は、本当に科学を信用していないのではない。それは危険である、という情報は信用するが、それは安全である、という情報は信用しない、というだけである。

それは自然な反応である。たとえば犬を散歩させているときに、はじめて通る道で怖い思いをさせると、その後しばらくの間は、その道を通るのを嫌がるようになる。

それは危険である、という情報は、人の記憶に強く残る。そして一度危険と認識したものを、実際は安全である、と認識し直すまでには、いくらかの時間がかかるのも事実である。しかし、人間は犬ではない。人間には他人を信用するという能力がある。

科学は信用によって成り立っている。他人の感覚を信用することで、科学的な知識の蓄積は可能になる。

たとえば、メスフラスコの値は誰が読んでも同一である。少なくとも、それが同一であると信じなければ、科学は成り立たない。あらゆる科学実験を一人で行うことは不可能である。ゆえに、他人の実験結果を信用しなければ、科学を作り上げることはできない。

もしも、誰も科学者の言葉を信用しなくなれば、科学というものは存在しなくなる。そのとき我々は、完全な無知の中に閉じ込められてしまうだろう。

科学を信用するということは、自分が直接経験しなかったことについて、他人の意見を信用するということである。それは人間の理性そのものである。

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また、感情と理性を対立するものとして捉える議論も、最近よく耳にする。しかし、感情と理性は無関係である。感情的であることが理性的であることを妨げるわけではないし、理性的であることが感情的であることを妨げるわけでもない。

 感情的である者が、同時に理性的であることは可能である。
 感情的である者が、同時に理性的でないことは可能である。
 感情的でない者が、同時に理性的であることは可能である。
 感情的でない者が、同時に理性的でないことは可能である。

ここに理性的な人がいたとしよう。もしも彼が、この社会で不正が行われていることを発見したならば、彼は怒るべきである。

ある人が理性を持っているのに、その理性にふさわしい感情を持ち合わせていないならば、その人は本当の意味で理性的であるとは言えない。怒りを伴わない理性は無価値である。

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