京都アニメーション放火事件

1

これは、二・二六や五・一五に匹敵するような、思想的なテロリズムである。日本社会を象徴するものに対する、容赦ない攻撃である。一体何が起きているのか。どうして誰も気付かないのか。これは非常事態ではないか。

昭和の日本人は、自分たちが直面している危機を、正しく危機として認識していた。その対処がすべて適切ではなかったとしても、危機を認識することはできていた。しかし今の日本人は、自分の体が燃えていても気付かない。それを他人事のように、ニタニタ笑いながら眺めているだけである。

アニメがなくなったら、今の日本に何が残るのだろうか。アニメは日本の良心とも言えるものなのに、それが燃やされても何も感じないのだろうか。

京都アニメーションは、日本のアニメ業界の中心だった。そこに攻撃が加えられたということの意味が、本当に分からないのだろうか。これは、日本社会そのものへの攻撃であり、矛盾の告発である。

2

日本のアニメーションは、普遍的な価値を持つ非常に優れた文化である。しかしながら、日本社会の内部において、それが正当に評価されてきたとは言い難い。これは異常なことである。

日本人のアニメーションに対する一般的な態度は、軽蔑、あるいは無関心であろう。それは大人の文化ではなく、子供の娯楽に過ぎないと考えられてきた。なぜだろうか。

それはおそらく、アニメーションというものが、優れて日本的な表現だからであろう。つまり、アニメーションという表現形態そのものに、西洋的な文化からの逸脱が認められるのである。

西洋人は、アニメーションの正しい扱い方を知らない。彼らの芸術の伝統は、この世界を静的なものとして捉えるからである。西洋の彫像や絵画は、輪郭がはっきりしていて、明晰さが際立つ。しかしそれらの芸術が表現するものは、現実を理想化した姿であって、一種の幻想に過ぎない。現実を静止した姿において捉える、しかもそれを、現実以上に細かい部分まで描く、ということが、西洋芸術の特徴である。

それに対して、アニメーションという芸術には、即興的な要素がある。物事を明晰さによって捉えるというよりは、その流動性によって捉えようとする。アニメーションにおいて大切なのは、一枚の絵画ではなく、複数の、というより大量の絵画の間にある繋がりである。その繋がりこそがアニメーションの本質であって、それを強調するために、一枚一枚の絵画の明晰さは犠牲にされざるを得ない。

もちろん、だからといって、アニメーションに芸術的な価値がない、ということにはならない。むしろ、絵画や彫刻とは全く異なる芸術が、そこには提示されているのである。それは、西洋の芸術よりも、東洋の芸術が追求してきたものに近い。それは、この世界を静止したものとしてではなく、躍動するものとして捉えようとする試みである。

松尾芭蕉の「軽み」というのは、まさにそのことを言っているのではないか。墨跡の流れるような線の中に、我々は精神を見るのではないか。変化の中に美しさを見ること。それが日本の文化だったはずである。

だからこそ、日本人はそれを子供っぽいと感じてしまう。日本人のアニメーションに対する態度を決定付けているのは、西洋的なものに対する劣等感であり、自国の文化に対する自信のなさである。それは、日本的なものを切り捨てることが成熟であると考えるような、歪んだ心性の現れである。その傾向は、あの戦争のトラウマによって、より強調されてしまったように思える。

私の目には、ミケランジェロの彫刻は良くできたおもちゃにしか見えない。むしろ元代の山水画や、蘇東坡の書のほうが、この世界の真理を表現しているように思われる。もちろん、アニメーションという芸術は、まだそこまで成熟しているとは言えない。しかし、それは、優れた芸術を生み出す肥沃な土壌になりうるだろう。

3

戦後の日本人には、ある種の負い目があるように見える。昭和の日本を支え、戦った人々を裏切り、日本を、そして天皇を、アメリカの手に渡してしまった、という負い目である。そして、自分たちをそのような状況に追い込んだ、父たちへの恨みである。それは一言でいえば、父たちに見捨てられた、という思いであろう。

その負い目を忘れるために、日本的なものを徹底的に否定し、西洋的なものに同化しようとしてきた。そうすることで、過去を克服できると思い込んでいるのである。

しかしそれは、日本に対する裏切りに他ならない。なぜならば、我々は勝ったからである。この日本が、アメリカなどという野蛮人の集まりに、負けるはずがないではないか。

あれを終戦と呼ぶことは、欺瞞でも何でもない。終戦だから終戦と呼ぶのである。それは敗戦ではない。我々自身が、戦争の終結を選んだのである。我々は天皇を守った。我々は日本を守った。我々は、成功したのである。

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