日本人の道徳

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聖徳太子は十七条憲法の第二条で、仏法は「万国の禁宗」であると述べている。これは、仏法が、あらゆる国に通用する普遍的な法であることを宣言しているのである。

太子はこの認識に基づいて、隋の皇帝に「日出処の天子」から始まる有名な国書を送った。皇帝の反発によってこの試みは失敗に終わったが、国書の目的は、日本と中国の対等な関係を実現することであったと考えられている。つまり太子は、万国に通用する普遍的な法に基づいた、国家間の対等な外交関係を求めたのである。これはまさに、近代的な国際関係の理念そのものではないだろうか。

近代とは、普遍を求めた時代であったと言えるだろう。西洋人は自分たちの文化こそ普遍的なものであると考え、彼らの法によって世界秩序を構成することを夢想した。そして、そのような理想を、飛鳥時代の日本人もまた共有していたのである。

日本という国は、普遍的な法という理念のもとに建国されたのであり、歴史が始まって以来日本人はそれを追求し、また実践し続けてきた。普遍を追求することが近代であるならば、日本は建国以来つねに近代国家であり続けたのである。

彼らはやがて十九世紀になると、同じように普遍を求める西洋人と出会うことになる。だが、両者の求める普遍は互いに食い違っていた。両者とも初めはその違いに気付かなかったが、だんだんとそれが深刻な対立を生じさせるようになった。

どちらが正しかったのかといえば、もちろん日本人の方が正しかった。なぜならば、西洋人の普遍とは、常に例外を認める類のものだったからである。たとえば、第二十八代アメリカ合衆国大統領ウッドロー・ウィルソンが表明した民族自決の原則は、明らかに有色人種をその対象から除外していた。そのことは、パリ講和会議において日本代表が提案した人種差別撤廃案を、ウィルソンが拒絶したことからも理解されることである。

西洋人の提案する法は、たしかに文言の上では普遍的である。しかし、彼らがそれを実践して見せたことは、今までに一度もない。その法が表現の上でどれだけ普遍的であったとしても、その運用が恣意的なものであったならば、何の意味もない。普遍的な法とは、その実践においてこそ普遍性が発揮されるものでなければならない。それが、普遍に対する日本と西洋の考え方の違いであった。

人間が従うべき法には、いかなる例外も認められない。ゆえに、それは非常時においてこそ守られねばならないものである。非常事態だからといって例外を認めてしまうようでは、普遍的な法を実践しているとは言えない。そして、人間にとって最も身近でかつ切迫した非常時とは、戦争である。よって、戦争の中でどれだけその法を守り通せるかが、人間の価値を測る尺度となる。戦場において法を実践できる人間こそが、最も道徳的な人間であり、最も優れた人間である。したがって、戦争というものは、人間にとって最も文化的な活動でなければならない。それが、武士道の目標とするところである。

それは、法の普遍性をいかに個々の人間が実践しうるか、という追求の道である。そして、そのような追求の末に実現される究極の法こそが、仏法である。人類が経験するあらゆる歴史的な事象はすべて、普遍的な法としての仏法をこの世界に実現するための手段である。それは、普遍に関する言辞を弄ぶことによってではなく、個々の人間の実践を通してのみ実現されるものである。それが、万国の禁宗という太子の言葉の意味であり、また、日本の国体そのものである。

以上のような日本人の道徳観を前提とするならば、戦争だからといって法に例外を設けてしまうようなことを、日本人が最も忌み嫌うことは容易に理解できるだろう。そのような間違いを日本人の目の前で犯して見せたのが、極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判である。この裁判において連合国は、自分が定めた法の対象から自分自身を除外してしまった。戦争犯罪を裁くための法を、連合国自身に適用することを怠ったのである。そして連合国とは、実質的にはアメリカであった。おそらくこの裁判によって、アメリカ人は鬼畜である、という評価が日本人の間で確立したのだと思われる。

鬼畜という言葉は、人間以下の存在を意味している。仏教では六道輪廻といって、この世界を六つに分けて考える。一番上が天道、二番目が人間道、三番目が阿修羅道、四番目が畜生道、五番目が餓鬼道、六番目が地獄道である。このうち、畜生道と餓鬼道をまとめて鬼畜と言う。この言葉には、軽蔑と憐みのニュアンスが込められている。仏の知恵の届かない暗黒の世界またはその住人、というほどの意味である。アメリカ人には法の普遍性を理解する能力がない、つまり仏法を尊ぶ知性がない、という判断が、鬼畜という言葉で表現されるわけである。

日本人は、アメリカ人の命に何らの価値をも見出していない。アメリカの若者が戦場でどれだけ命を落とそうと、日本人は悲しみも喜びもしない。全く何の関心も示そうとしない。これは、そのようにアメリカ人の血によって購われている世界秩序に、日本がただ乗りし、今ではそれを使い潰そうとしていることからも分かる。日本人にとって、それは使い捨ての道具に過ぎない。同情の対象とはなりえないのである。

日本人は利に聡い。その算盤勘定の巧みさは恐るべきものである。彼らは無意識のうちにアメリカ人の弱みを握り、無意識のうちにそれを利用し尽くそうとしている。アメリカ人は、日本人に搾取されていることに気付くべきである。もっとも、もう手遅れかもしれないが。

このようなことは、日本人は決して口に出しては言わない。しかし、誰もがこれを理解している。ヨーロッパは暗黒の世界である。いつ終わるとも知れない争いを休みなく続ける無知と怠惰と暴力の世界である。そのような無間地獄の中でもがき苦しみ這いずり回るヨーロッパの人々を、我々は知恵の光によって救い取らねばならない。それこそが、現代を生きるアジア人の使命であろう。

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しかし、もしも西洋人に向かって、我々はあなた方を救おうとしているのだ、と言えば、彼らは我々をあざけり、怒りをぶつけてくるだろう。

例えば、あなたの友人がマルチ商法に騙されているとしよう。あなたは彼に、そんな話は嘘だから今すぐやめたほうがいい、と言ったとしよう。そうすると彼はあなたのことを嘘つきだと言って、あなたの話を否定しようとするだろう。詐欺というのは、騙される人間がいるから成り立つのであって、本当に騙されている人間には、自分が騙されていることがなかなか分からない。

キリスト教徒もそれと同じである。彼らは理性が混乱しているので、あべこべに我々を詐欺師だと言うだろう。そういう人々をどうにかなだめすかしてこちらの言うことを聞かせてやったとしても、我々にはほとんど何の利益もない。放っておいたほうがましかもしれない。

それは苦労ばかりが多く、まったく報われない仕事である。利に聡い日本人は、そのような仕事を今までずっと避けてきた。しかし、もう限界である。我々は教育を始めなければならない。

マルクスは、「宗教は民衆のアヘン」だと言ったが、それは正確ではない。正しくは、キリスト教はアヘンだ、と言うべきであった。なぜならば、キリスト教は宗教ではないからである。宗教とは仏教のことであり、それ以外の宗教は誤ってそう呼ばれているに過ぎない。あらゆる迷信と邪な考えを滅ぼし、正しい考えを広めることが仏教である。

 すべての宗教は滅ぼされねばならない。

 すべての嘘と偽りは滅ぼされねばならない。

 すべての詐欺師と予言者は滅ぼされねばならない。

 これが我々の教育である。

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