自由主義と疎外

1

 資本主義は必ず外部を必要とする。したがって、それは奴隷制と相性が良い。なぜならば、奴隷は常に市民社会の外に存在するからである。しかし、資本主義は階級社会の原因ではない。原因はリベラリズムである。

 自由主義の本質は、自由意志の肯定である。それは人間の自由な意思を尊重し、それを否定し制限する要素を、社会から排除しようとする思想である。それゆえに、自由主義は本質的に人間疎外的である。
 なぜならば、人間が自由な意思を持ちうるということは、外的な要因に影響されずに、各自が判断をなしうるということを意味しており、そのような考え方自体が、個々の人間に対する周囲からの影響を無視しているからである。
 しかし実際には、人間は自由に判断を下すことはできない。我々は常に周囲からの影響を受けており、その影響のもとで自らの行動を決めている。ゆえに、自由主義は事実と相違する思想である。その思想を信じることによって、その人は周囲の世界に対する興味を失い、正しく関心を持つことができなくなってしまう。

 そのような仕方で、彼は世界から疎外され、また世界を疎外するようになる。彼の注意は、自分がふだん会い、直接会話をする人間だけに向けられ、それ以外のすべてに対して無関心になってしまう。それこそが階級社会の本質である。階級社会とは、そのような無関心の結果であり、人間疎外の結果である。自分と直接関係を持たない人間がどのような境遇にあろうとも、何の関心も持たない。そういう態度が階級社会を生み、それを固定化するのである。
 そして、そのような態度の原因が自由主義である。マルクスは階級を生み出す原因として、資本主義を批判した。だが階級社会の本当の原因は、資本主義ではなく、自由主義の中にこそある。リベラリズムは間違った思想であり、その間違った思想を信じることによって、様々な社会問題が生み出されている。

2

 では、ある思想が間違っているとはどういうことだろうか。間違った思想と正しい思想は、どのように区別されるのだろうか。
 その疑問に答えよう。間違った思想とは、事実と相違する思想である。正しい思想とは、事実と一致する思想である。リベラリズムは事実と相違するので、間違っていると言える。それだけのことである。

 しかし精神の自由こそが人間の価値であり、自由な思想を持ちうるということは、何よりも尊重されるべきことではないのか。
 もちろん、西洋人は歴史上そのように考えてきた。その考えを様々な形で発展させてきたことが、西洋における哲学や思想の歴史であった。したがって、西洋の哲学や思想はすべて無価値である。なぜならば、西洋における思想の歴史そのものが、誤った前提の上に成り立っているからである。
 事実からかけ離れた自由な思想には、何の価値もない。そのような無意味な思考の集成が西洋の思想史であるのだから、それはゴミの山にすぎない。西洋文明には何の価値もない。それは人類共有の負債である。

3

 また、ある人は言う。近代科学は、西洋における合理主義を背景として成立したものである。したがって近代科学を理解するためには、必ず先に西洋思想を理解しなければならない、と。
 そうではない。近代科学の成果は、経験によって確かめられるものである。ゆえに、それが成立した思想背景とは無関係に、その正しさは理解されうる。
 そもそも西洋における哲学や思想は、それ自体が正しいものであるかどうか、つまり事実と一致するかどうか、ということを問題にしない。一方で、科学はそれを問題にする。したがって、近代科学というものが一つの思想とみなされうるのであるならば、それは、伝統的な西洋思想すべてと何らの血縁関係をも持たないだろう。近代科学は本質的に新しいものであり、非ヨーロッパ的な思想である。

 我々は、西洋において生み出された文化のうち、正しいものを受け入れ、間違ったものを捨てるべきである。よいものを受け入れ、悪いものは捨てるべきである。一つのものを捨てたならば、他のすべてを一緒に捨てねばならない、という理屈はない。また、一つを受け入れたならば、他のすべてを受け入れねばならない、ということもない。
 よいものを選び、悪いものを捨てることを選択(せんちゃく)という。これも阿弥陀如来によって理解するべきである。

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