三光作戦

日中戦争や太平洋戦争に関して、歴史認識の問題が絶えない。それはなぜかというと、いまだ歴史的な事実が明らかにされているとは言えないからである。東京裁判は、本来ならば、戦争に関する事実を明らかにするべきものであった。だが実際には、客観的な調査がなされたとは言い難い。

東京裁判の最大の問題は、反対尋問が行われなかったことであろう。検察側の証人に対する弁護側の反対尋問が認められず、彼らの証言がそのまま事実として記録されてしまった。そのことが、東京裁判の信憑性を著しく損ねている。

普通の裁判であれば、証人に対する尋問が行われ、その証言の事実性が確認される。これが省かれるならば、証人の思い込みや記憶違いが、そのまま事実として認定される可能性が出てくるので、結果として裁判の客観性が損なわれてしまう。南京虐殺等の問題が今だに解決されていないのは、東京裁判において客観的な調査が行われなかったことが大きな理由であろう。


まだ触れていなかったので、ここで三光作戦について私見を述べたい。三光とは「殺し尽くし・焼き尽くし・奪い尽くす」という意味で、この作戦のために、日本軍は中国市民を虐殺したと言われている。しかし、日本側の記録に相当する作戦が出てこないため、実態はよく分かっていない。

ただ、城野宏氏の『山西独立戦記』によれば、日本軍は華北において、たしかに農村の焼き討ちなどを行っていたらしい。城野氏は、中華民国山西省政府顧問補佐官を務めていた軍人で、終戦後も中国に残り、閻錫山と協力して山西省に独立政権を樹立しようとした人物である。結局その望みは果たせず、共産党に敗れて捕虜となってしまうが、帰国後に上掲の回顧録を発表している。興味深い記録である。

中国共産党の根拠地は陝西省にあったが、日本軍はそこまで勢力圏を拡大することができず、彼らの掃討には成功していなかった。当時の共産党は弱小勢力であり、日本軍に大規模な会戦を挑むことは滅多になかったが、小規模な戦闘は続けていた。しかも彼らは、自分たちが不利と悟るやすぐに逃げてしまうので、日本側は有効な打撃を加えることができず、対策に苦慮していた。

そこで日本軍は、共産党の根拠地周辺において、農村や田畑を焼き払うことがあったという。つまり、共産党の補給源を断つことで、彼らを兵糧攻めにしようとしたのである。非常に基本的な戦術といえる。だがこれは逆効果で、日本軍が村を焼くほど、共産党の人気はうなぎ登りに高まっていった。城野氏は、自分たちの敗因は、中国の一般市民を味方につけられなかったことだと分析している。もっともなことである。

このような記録があるので、三光作戦のもとになる事実はあったといえる。ただ、これはおそらく共産党の支配地域周辺の話で、それ以外の地域、とくに国民党の勢力圏で、このような作戦が行われたという例は聞いたことがない。その意味で「三光作戦」は、日本軍の作戦行動の中では特殊的・地域的な性格のものだったと考えられる。

山西省は黄河上流域の乾燥地帯、いわゆるオルドスにあり、いまでも竪穴式住居で生活する人が多いという。気候風土が独特で、周囲から隔絶された半ば独立国のような場所らしい。陝西省はさらにその奥地で、シルクロードの入り口といってもよい、唐の都長安が置かれていた土地である。

このように、中国は広い。その広い中国を日本人が縦横無尽に駆け回った日中戦争には、我々の心を惹きつけてやまないロマンがある。これを忌むべき記憶と捉える者も多いが、私にとっては心の慰めの一つである。この戦争は、調べれば調べるほど興味が尽きない。


少し補足しておくと、日本軍が田畑をどう扱ったのか、私は知らない。おそらく収穫期の作物は略奪し、自分たちの食料としたのだと思う。たとえば戦国時代、上杉謙信は幾度となく兵を起こし、他国を侵略した。その出兵の時期は、だいたい麦や米の収穫期と一致するという。つまり、他国領に侵入した上杉軍は、農作物を刈り取り、自分たちの食い扶持にするとともに、それによって敵を飢えさせ、戦争を有利に進めようとしたのである。

もしも、三光作戦の実施時期が農作物の収穫期と一致するならば、日本軍のねらいの一つが明らかになるだろう。ただ、一般的に言って、近代的な軍隊はしばしば不合理な行動をとるので、上杉軍のような最適化された行動をとれたとは考えにくい。

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