空爆と終戦

空爆は基本的に、補助的な攻撃手段である。陸上部隊が侵攻する前に予備的に空爆を行い、敵の戦力を減らしたり、様子見をしたりする。そのため、陸上部隊なしに行われる空爆には、政治的な意味しかない。

たとえば日中戦争のとき、日本は中国の平野部を北から南まですべて制圧した。長江流域では、上海から上陸して南京に進み武漢に到達したが、そこで兵を止めた。なぜかというと、その先は三峡だったからである。国民党は、武漢からさらに長江をさかのぼった先にある四川省、つまり蜀の地に逃げ込んでおり、彼らを追撃しようとするならば、日本軍も蜀道を進まなければならない。そこはかつて、天に登るよりも難しいと歌われた要害の地であり、土地に不慣れな日本軍が押し通ろうとするならば、大損害が出ることは確実である。

しかし戦争の目的を達するためには、国民党と妥協することは許されない。日本には彼らを倒す意志があることを示さなければならない。そこで苦肉の策として行われたのが、重慶爆撃である。陸上部隊を進めることはできないが、攻撃の意志を示す必要はある。そういう政治的な理由から行われた作戦であった。

では、その効果はどうだったのかといえば、あまり芳しくなかった。空爆によって痛めつけられた重慶市民は、むしろ団結力を増し、士気を高めていた。そもそも空爆は卑怯な攻撃である。敵は姿を見せずに、爆弾を落として去ってゆく。そういうことをやられると、負けてたまるか、という気持ちが生まれてくる。こんなことまでされて、ただで済ますわけにはいかない、という闘志が生まれてくるのである。そういう側面があるので、空爆は使いどころが難しい。


実のところ、米軍の空爆を受け続けた日本人の間にも、似たような感情は強くあった。今では、日本人は原爆を落とされて戦う気力を失ったのだ、と考える人も多いが、そんなことはない。むしろ当時の日本人は報復を求めていた。日本人は決してあきらめていなかった。

ここで、そもそもどうしてアメリカ軍は空爆という手段をとったのか、ということを考えなければならない。というのも、アメリカは沖縄を占領し、本土進攻の準備が整った後も、空爆を続けたからである。本当ならば、空爆に続けて軍隊を上陸させ、日本を占領しなければならない。そうしなければ、戦争目的は達成できないはずである。にもかかわらず、アメリカは空爆のみを行い、地上部隊を進ませなかった。

そこには、軍隊を進めようとしても進められなかった事情があると考えねばならない。一つは、被害の大きさに恐れをなしたということである。九州で地上戦を行った場合、アメリカ軍も大損害を受けることが予想される。そこで日本が勢いづき、戦線が膠着状態に陥れば、戦争が長期化する恐れが出てくる。しかしアメリカ国民は、すでに戦争に嫌気がさしている。もう一つは、戦争を続ける理由がなくなったことである。何度も述べている通り、太平洋戦争を始めたのはルーズベルトであり、彼は中国を手に入れるために戦争を始めた。そのルーズベルトが死に、何の戦略も持たないトルーマンが後継となったことで、アメリカは戦争の目的を失っていた。彼は、何とかして日本との戦争を終わらせることだけを考えていた。


そのアメリカ側の意向を汲み取ったのが、昭和天皇である。彼は、日本が降伏を受け入れる形をとることで、トルーマンの顔を立ててやった。それですんなり戦争は終わったのである。つまり日本の降伏は、高度な政治的判断の賜物であり、日本国民の総意などでは決してない。天皇は、日本人の闘志を押さえ込み、すべてを自分一人で抱え込むことで、戦争を終わらせたのである。

終戦の詔は、すべて自分に任せろ、という宣言であり、日本人は黙ってそれに従った。それはまた、戦争については何も考えるな、という命令でもあった。というのも、日本人はアメリカを不正義とみなして戦争を続けていたが、戦後の和解を実現するためには、アメリカに対する見方を変えなければならないからである。アメリカは悪ではなかった、という歴史観は、戦争中に国民が信じていた歴史観とは真逆である。その転換を行うために、戦争そのものを忘却しなければならなかった。それを日本人に命令したのが、あの詔であった。

そのため今でも日本人は、天皇の言いつけを守って、あの戦争について深く考えることをしない。アメリカは善で日本は悪だった、と素朴に信じ込んでいる。こうした歴史観の歪みを作り出した原因は、ひとえに昭和天皇にあると言わねばならない。彼はたしかに英雄だったが、その罪もまた大きい。

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