参謀の仕事

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石原莞爾が参謀本部の作戦部長だった時に、盧溝橋事件が起きた。石原は不拡大方針を貫いたが、その方針は、部下の参謀や現地の将校たちに裏切られ続けた。結果として、日中戦争の戦線は際限なく拡大してゆくことになる。だが、当時の彼の判断に疑問符をつける研究者も多い。

問題とされるのは、昭和十二年七月十日に参謀本部で決定された、北支時局処理要綱である。ここで、日本内地や満洲から数個師団を北支に派遣して、冀察政権軍に対峙させる、という方針が決定された。この増派が、現地でまとまりかけていた協定案を台無しにし、また、好戦的な国民世論を後押しして、日中戦争の拡大を決定づけてしまった。石原はこの決定を支持したのである。

石原は、自身不拡大を主張しながら、どうして増派に賛成したのか。彼が反対していたならば、盧溝橋事件は、ただの局地的な戦闘で終わっていたのではないか。そのように想像する人も多い。

そのとき彼が気にしていたのは、国民党軍が北上している、という情報であった。ただでさえ劣勢な支那駐屯軍に対して、国民軍主力の圧力が加われば、簡単に押しつぶされてしまうだろう。そのような事態を恐れて、あらかじめ追加の部隊を派遣し、現地軍を増強しておくことにしたのである。

このような石原の判断はどこから来たのか。それは、兵士の命に対する責任感である。兵隊を無駄死にさせることだけは絶対に回避しなければならない、という使命感である。増派によって、その可能性を少しでも減らすことができるのであれば、彼に反対する理由はなかった。

それは本来、参謀が持つべきものではない、司令官が持つべき責任感である。しかし恐ろしいことに、当時の日本軍には司令官がいなかったのである。

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参謀には、あくまでも補佐としての役割しかない。それは、司令官の判断を容易にするための、補助的な機関である。参謀が様々な作戦を立案し、司令官が軍隊の行動を最終的に決定する。それが正常な軍隊の姿である。この場合、兵の命に対して責任を負うのは、最後に決定を下す司令官であって、参謀には直接的な責任はない。だからこそ、自由な作戦立案が可能になる。

当時の日本軍では、参謀本部が実質的な司令部になっていた。しかし、参謀はあくまでも参謀であり、将兵の命に責任を負う能力はない。その中で石原は、できる限り兵の命に責任を持とうとした。彼は、参謀としてではなく、将軍として振る舞ったのである。

しかし昭和の陸軍は、そのような人物を受け入れることができなかった。ある意味で、石原は乃木大将になろうとしたのである。軍隊における責任を、自分一人で引き受けようとした。だが結局、日本軍は将軍の存在を受け入れられなかった。その後も司令官不在のまま、無責任な参謀の暴走が続けられてしまう。

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本当は、いたのである。本当は、日本軍にも司令官はいた。しかしその人は、立憲君主を建前として、決して兵の前に姿を見せなかった。もしも彼が、本当に日中戦争を防ごうとしたのであれば、将兵の前に姿を見せて、朕が司令官であるぞ、と一言言えばよかった。そうすれば、統帥権の問題は一瞬で解決したはずである。

司令官とは、軍隊の象徴である。全ての命令は司令官から流れ出してくるのだ、という印象を兵隊に持たせることが、司令官の仕事である。それによって軍隊の指揮系統は保たれる。

その象徴としての役割を、彼は果たすことができなかった。昭和という時代にふさわしい君主ではなかった。暗君であった。終戦のご聖断はたしかに素晴らしかったが、それは遅すぎたのである。盧溝橋の時に決断を下さねばならなかった。

そもそも、当時の日本には構造的な問題があったのであり、それを天皇のせいにするべきではない、という意見もあるだろう。しかしそれを含めて、すべての責任を一人で負うのが君主という仕事である。したがって、あの戦争は昭和帝の責任であった、と我々は言わねばならない。

それは、対英米開戦の責任ではない。日中戦争を止められなかったことと、その結果としての将兵の犠牲拡大への責任である。対英米戦争は時局の然らしむるところであり、昭和帝の責任とは言えない。また、何度も繰り返すようだが、終戦の決断はご立派であった。おそらくこの時から、昭和天皇は君主としての歩みを始められたのだろう。

昭和という時代は、様々な不幸に直面しながら、それでもなお、その輝きを失うことはなかった。平成は、昭和を受け継ぎ、それを完成させたと言うことができる。次の令和は、いかなる時代になるだろうか。

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