森友学園問題

1

二〇一八年三月、森友学園の国有地払い下げ問題に関連して、財務省で公文書の改ざんが行われていたことが発覚した。

一部報道によれば、事件の真相は、安倍首相夫人と交友があった同学園の籠池理事長のために、首相本人が口利きをした事実を隠蔽するためのものだったという。もちろん、報道の通りに隠蔽が実行されたのだとすれば、首相が関係していたことを示す証拠は残されていないはずなので、この報道は推測に基づくものであろう。

いずれにせよ、現役の公務員による公文書の改ざんという問題は、重大である。この事件の責任は誰にあるのだろうか。

直接には、改ざんを実行した財務省の職員である。

しかし、それが職務の一環として行われたのだとすれば、組織全体の責任が問われなければならない。つまり、その職員に改ざんを指示したのは誰なのか、という問題が次に出てくる。そうすると、責任はその職員だけではなく、彼の上司にもあることになる。だが、その上司も誰か他の人間から指示を受けたのかもしれない。

さらに、その職員に行政の仕事を行わせていた責任、つまり任命責任というものについても考えなければならない。

さて、こういった問題を含めて、行政の仕事全体に対して最終的に責任を負うのは誰かと言えば、それは行政の長たる内閣総理大臣である。

したがって、安倍晋三本人が、文書改ざんや国有地の払い下げを指示したのであれ、しなかったのであれ、どちらにせよ彼一人が辞めればそれで済んだ話である。なぜならば、どちらの場合でも、全ての責任は彼一人にあるからである。

にもかかわらず、あくまでも我を通して首相の座に居座り続け、それによって一方では政府内部に混乱を引き起こし、他方では政治に対する国民の信頼を失わせたことは、国家にとってこれ以上に大きな害はない。

そういう人間がいまだに首相を務めているのだから、日本国民として情けない限りである。我々は、彼の名前が歴史に残らないように、気を付けなければならない。

2

この事件が発覚した時に、彼は辞めるべきだった。しかし、実際には辞めなかった。その罪は重い。

彼は、責任の所在を明らかにすることができなかった。

責任とは責任感のことであり、自分の仕事に責任を持つということである。それは、自分の仕事に落ち度があれば自分でそれを正すということであり、また、自分の仕事の範囲で問題が起きないように注意を怠らないということであり、また、それが可能になるように自己の向上に努める、ということである。

組織の長たる人間の務めは、直接に一人ひとりの職員を指導するということではなく、自分の仕事にどう向き合えばよいか、という手本を示すことである。組織の長の振る舞いによって、その組織に属する人間の振る舞いは変わってくる。一人ひとりの職員が責任をもって自分の仕事に取り組むためには、まず、組織の長がそのような姿を示さなければならない。

責任とは、どこかにあるものではない。規則の上でその人に責任があるとされているだけで、実際には、彼がその組織を直接指導したのではないのだから、彼に責任があるとは言えないのではないか、と思う人もいるかもしれない。そう考える人は、責任というものを理解していない。

責任とは、組織の在り方を決定付けるものである。

規則が組織の形を決めるのだとすれば、規則こそが責任そのものである。規則が提示するのは、その組織がどうあるべきか、という規範であり、その規範に沿って行動することによって、組織そのものが形を与えられるのである。

規則がなければ組織はない。規則を守る人間がいなければ、その組織は存在しないのと同じである。そして、規則を実践しようと努めることが、責任をとるということである。責任ある行動によって、初めてその組織は現実に姿を現すのである。

もしも、ある人が規則を無視し、責任をとることを拒否するならば、そしてもしも、それが組織の長であったならば、その瞬間に、その組織は存在することをやめるだろう。

行政の長の責任は非常に重い。それは、政府という組織の長であるだけでなく、国民全体の長でもある。彼の振る舞いによって、国民全体が影響を受ける。彼の振る舞いが、この国の形を決めるのである。

果たして、その人がこの国にふさわしい人間であるかどうか、我々は考えてみなければならない。

3

責任に対する考え方の混乱の根本には、欧米人独特の、因果律に対する誤った考え方がある。彼らは、因果律と決定論を混同している。そのため、直接の影響があるかないか、ということで因果律を判断しようとする。よって、どこに責任があるのかという問題も、直接の因果関係によって理解しようとする。

これは本当に馬鹿げたことで、あまりにも馬鹿げているので何も言えないくらいなのだが、できる限りの説明をしようと思う。


因果律の本質は場合分けである。場合分けの考え方によってしか、因果律を捉えることはできない。そして、因果律と責任は無関係ではない。責任について考えるためには、因果関係について考えざるをえず、そのためには、場合分けの考え方をする必要がある。

我々は、ある出来事が起きた場合と、起きなかった場合の結果を比較することで、原因と結果のつながりを把握できる。過去に起きた出来事であれば、それが起きなかった場合を考えることによって、因果関係を把握することができる。

それは、想像力というような胡乱なものではない。我々が日常生活の中で普通にやっていることである。それを、自分の生活を離れて、自分から少し遠い物事に当てはめてみるだけでよい。

現実に起きることは一回限りなので、起きることは起きるし、起きないことは起きない。なので、現実に起きたことだけを見ていては、因果関係を把握することはできない。これこれのことが起きなかったならば、どうなっていたか、ということを考えることで、初めて因果律は姿を現すのである。

それが頭を使うということなのだが、今はそんなことすらできる人が少なくなった。とくにジャーナリストという人種は、政府や警察の言うことをおうむ返しにするだけで、ものを考えるということを全くしない。そんな仕事なら猿にもできるだろう。

現実に起きたことしか見ない人間には、現実を理解することはできない。現実には起きなかったことが、現実を構成しているのである。

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