徳の教育、知性の教育

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AIと人間の違い

カンガルーの顔を見ると、いつも不思議な気分になる。鹿の顔のようにも見えるし、ウサギのようにも見えるし、馬のようにも見えるが、そのどれとも違う。どこかで見たような気がするけれども、いままで見たどの動物とも違う。カンガルーの顔はカンガルーの顔としか言いようがないのだが、なんとなく何かに似ているような気がする。

我々はカンガルーに馴染みがない。もちろん今では、日常生活で動物を見る機会も少なくなったが、それでも普通の子供なら、豚や牛や犬や猫やウサギやニワトリは知っている。しかしカンガルーは、動物園に行かないと見ることができない。では、日本の子供は、カンガルーがカンガルーであることをどうやって知るのだろうか。

AIがカンガルーを理解するためには、何千枚ものサンプル画像を見せなければならない。しかし人間の子供は、一匹のカンガルーを見ただけで、カンガルーが何であるかということを即座に理解してしまう。それからは、カンガルーとそうでないものを正確に区別できるようになる。

どうしてそういうことができるのかというと、人間には生まれつき、物事の本質を把握する能力が備わっているからである。本質の把握は瞬時に生じる現象であり、しかも感覚を通してしか働かないものである。言葉によっていくら説明されても、カンガルーを理解することはできない。実際に目で見て耳で聞いて、手で触って鼻で嗅ぐことで、その本質を理解する。これが人間の知性の源である。

言語と認識

言葉の第一の機能は、ものを区別することである。ウサギにウサギという名前を与え、カンガルーにカンガルーという名前を与えることで、我々は両者を区別している。そして、そのように名前を付けることができるためには、あらかじめウサギとカンガルーを区別できていなければならない。というのも、ウサギとカンガルーの見分けがつかない人間には、それぞれのものに名前を付けることはできないからである。ゆえに、人間の言語能力の本質は、ものを区別する能力だと言うことができる。

これは基本的に生得的なものである。どうして我々が動物を区別できるのか、誰にも分からない。ただ、できるものはできると言うしかない。この能力が言語使用の基礎になっている。したがって、我々は自然と触れ合うことで、自然物を識別する能力を発達させ、それによって言語能力を成長させることができる。つまり、賢くなる。自然との触れ合いは、人間知性の発達にとって不可欠の条件である。

人間の認識能力は第一に自然に対して働くものである。我々の自然を識別する能力は非常に優れており、どんな些細な違いも見逃さずに、生物種を同定することができる。この能力を鍛えることが、知性を鍛える一番の方法である。

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教育の難しさ

教育がいかにあるべきか、ということは、常に人々の関心事である。社会とは人間によって作られるものであり、その人間を作ることが教育であるから、教育は国家の背骨だと言える。では、教育とは何か。

人間は未熟な状態で生まれてくる。子供はまだ、人間として生活するために必要なことが分かっていない。それを教えることが教育である。では、それは何か。人間として生きるためには何が必要なのか。

必要なことは徳である。徳とは思いやりである。また、正義であり恥である。人間は生まれつき徳を持っているわけではない。これは教育によって与えられねばならないものである。では、そのためには何が必要かというと、説明は難しい。形式的に言えば古典である。孟子や論語を読むことが第一である。しかし、それが全てではない。

教育ほど難しいことはない。教師は常に最適な行動をとらなければならない。叱るべきときに叱り、誉めるべきときに誉めねばならない。教師にミスは許されない。常に正しい行動をとらなければ、教育は効果が上がらないのである。

現在の教育現場の一番の問題点は、教師が自由に動けないことであろう。社会や親の学校への介入が強すぎて、教師の権限が狭められてしまっている。しかし教師の仕事には、絶対的な自由が必要であり、適切なときに適切な指導ができるように、最大限の配慮がなされるべきである。

極端なことを言えば、本当に必要だと判断したときには、教師は生徒を殴ってもよい。もちろん、必要がないのであればやらないほうがよいが、必要なときには体罰も構わない。それくらいの権限が教師には必要である。

いじめをなくすには

思うに、いじめの問題が深刻化するのは、体罰が禁じられているせいである。他人をいじめるような人間に、他人の痛みを理解しろ、といくら説得しても意味がない。実際にその痛みを与えてやるしかないのである。

いじめの問題において、言葉は無力である。先生に殴られれば、殴られたほうは、自分はどうして殴られたのか、と自問自答する。そのなかで、自分の過ちに気付くきっかけが得られる。そこで体罰を躊躇すれば、その生徒の人生が狂ってしまう。過ちを正す機会が失われたまま、子供は成長してしまう。それは教育の失敗である。

体罰の本質は、暴力ではなく恥である。クラスの中で自分だけが先生に殴られるという恥が、生徒に反省を促す。それは殴られた生徒だけでなく、殴られなかった生徒に対しても同様の効果を与える。この方法が、言葉によるよりもずっと効果的な場合がある。もちろん、すべての教師にこれができるわけではない。ある種の人格的な力が不可欠である。

教育は能力の向上ではなく、人格の完成を目的としなければならない。それは知性の発達と軌を一にするものである。

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