東条英機

1

率直に言って、大東亜戦争の作戦指導は不可解である。

戦争の歴史を知る人なら分かると思うが、戦線を拡大するということは、常に危険なことである。戦線が伸びると、そのぶん一箇所に配置できる兵力が少なくなるので、敵に突破されやすくなる。とくに味方の兵力が少ない場合には、戦線をむやみに拡大することは禁物である。

いま、大東亜戦争における日本軍の活動範囲を見てみると、西はビルマから東はニューギニアまで広がっている。これは明らかに、戦線を広げすぎである。

なぜ、このような作戦を実行したのか。もしも私が参謀だったならば、こんな作戦は怖くて実行できない。そもそも普通の軍人ならば、こんな作戦は思いつかないし、思いついたとしても実行する勇気がない。これではまるで、裸のまま突撃するようなものである。

戦争目的から考えるならば、極東におけるイギリスの活動拠点を奪うために、シンガポールを占領する必要はあった。また、日本本土を防衛するために、サイパンの占領も不可欠である。だが、それ以上に兵を進める必要はない。シンガポールからサイパンまでのラインを防衛線にして、そこから先には兵を出さず、守りに徹するべきである。そうすれば、不敗の態勢を作ることもできたかもしれない。

しかし、そうして守りを固めるためには、まず防衛線の内側を安定させなければならない。防衛線の内側でも別の戦争をしているようでは、とても守りに徹することはできない。そうすると、日中戦争の解決ということが、この場合は絶対条件となる。そう考えると、現実的には、この案は見込みがない。つまり、日本には打つ手がなかった。どうやっても負けるしかない。そういう状況で、死中に活を見出すために何をすればよいか。

おそらく、そのとき彼らが考えたことは、逆を張る、ということだろう。相手が全く予想していないことだけをやって、敵の不意を衝く、ということである。これは大博打だが、万にひとつでも勝ち目があるとすれば、それしかない。そういう考えがあったのではないか。

だが、そうすると、どうにも分からないことがある。それは、東条英機という人間のことである。彼は、そんな大博打ができるような人物だったのだろうか。

私が理解している限りでは、彼は堅実な人間である。気配りが細やかで、周囲の人間や部下からは慕われるが、独創的な意見を持っているわけではない。ただ信念は強く、愚直な人間という印象を受ける。一か八かの賭けをしそうな人間には、とても見えない。

どうも彼は、軍事的な観点から見た場合には、あの戦争とは釣り合わないような気がするのである。もちろん、作戦参謀としての才能がなかった、ということは言える。その点で、彼には抜けていたところがあったとは思う。しかし、それだけで済ませるには、あまりにも問題が大きい。いったい何が彼を支えていたのか。どんな信念が彼にはあったのか。

大東亜戦争には大義があった。大義とは、植民地の解放である。そして、その先にある平和な世界の建設である。その大義を世界に問うために、日本は、それを実行してみせる必要があった。東条の信念はここにあったのだろう。彼は日本の国体を信じていた。日本の大義を信じていた。それを疑うことなく信じ切っていたからこそ、その大義をそのままに実践してみせることができた。つまり、西はインドから東はパプワまで、欧米の植民地を一つ残らず解放し、その事実をもって、日本の大義を世界に示そうとしたのだろう。まさに天晴れである。

2

ここで、戦争以外の選択肢はなかったのか、と問う人がいるかもしれない。基本的には、なかったと思う。外交努力によって問題を解決することに、日本政府は全力を尽くした。しかし外交というものには、常に相手がいる。こちらがどれだけ努力しても、先方にそのつもりがなければ、交渉は成立しない。

もちろん、アメリカ人や彼らに同調する人々は、アメリカ側に落ち度があった、ということを認めたがらないだろう。しかし、率直に歴史資料と向き合ってみれば、それは明らかである。戦争を望んだのはアメリカである。

日本は侵略国家だったのだから、その日本と戦ったアメリカの方に正義があるのではないか、という反論もあろう。いま仮に、日中戦争が、日本による侵略戦争だったとしよう。では、侵略戦争を行っている国に対しては、戦争を仕掛けてもよいのか。

もちろん、よくない。相手がどんな国家であろうと、戦争を始めること自体が犯罪行為である。それは、東京裁判において確認された原則である。したがって、日本が侵略国家だったからといって、日本に戦争を仕掛けてよい、ということにはならない。

しかし、先に仕掛けたのは日本ではないか、と言う人もいるだろう。

実際には、戦争を始めたのはアメリカである。日中戦争が戦われている最中に、連邦議会において、中国への無制限の武器の貸与が認められた。それが日本とアメリカの戦争でなかったとしたら、いったい何なのか。それでもアメリカは、日本との友好関係を望んでいたと言えるのか。もしも大統領がそう言ったのだとしたら、それは明らかに嘘ではないのか。自分を殺そうとしている人間に武器を貸し与える相手と、どうすれば友好関係を築くことができるのか。

戦争によらない問題の解決を拒んだのは、アメリカである。そのため、日本は戦争を始めた。我々は売られた喧嘩を買っただけである。

3

結果的には、それでよかったわけである。大東亜戦争は間違いではなかった。日本が掲げた大義は、ある程度、世界の支持を得たと言えるだろう。もしも、日本軍がシンガポールで進軍を止めて、スマトラやジャワ以東の島々を解放しなかったならば、今のような世界はありえなかったはずである。独立国家の集合体としての国際連合というものも、存在できたかどうか分からない。

大東亜戦争が示した政治的なメッセージは、世界中の人々に強烈な印象を与えた。なぜならそれは、口だけではなく、実践を伴っていたからである。ゆえに、あの戦争は政治的には成功だったと言える。では、東条には、政治家としての才能があったのだろうか。

多分なかったと思う。彼がどこまで計算していたのか、どこまで予想していたのか、それとも何も考えていなかったのか、私には分からない。だが、それでよかったのかもしれない。彼には、軍人としての才能も、政治家としての才能もなかったが、何を信じればよいかは知っていた。たぶん、それが最も重要な資質だったのだろう。

こういう人間が側にいてくれたということは、昭和天皇にとっても心強いことだったはずである。まだ経験の浅い君主には、石原莞爾のような曲者を使いこなすことは難しかったのだろう。

4

また一部では、日本は全体主義国家だったから、戦争に突き進んだのだ、という誤解があるようである。しかし、戦前の日本は全体主義ではなかった。大政翼賛会などの政治的な動きは、たしかにファシズムを目指すものではあったが、そうした試みはすべて失敗している。

実際に日本が全体主義国家となるのは、太平洋戦争が始まってからだと思われる。つまり、アメリカの脅威が出現することで、図らずも全体主義が実現されたわけである。日本は、戦前からすでに民主主義国家であり、自由主義国家であった。

戦前の日本は民主主義国家ではなかった、と思い込んでいる人が、なぜそう思い込んでいるのかといえば、日本が戦争を始めたからであろう。民主主義国家は戦争をしない。しかるに、日本は戦争を始めた。ゆえに、日本は民主主義国家ではなかった、という三段論法である。しかし、その大前提が正しいという根拠はどこにもない。

もしも、日本が民主主義国家でなかったならば、日中戦争は起きなかったであろう。参謀本部には、盧溝橋事件を局地的な戦闘で終わらせようと努力する人々がいた。一方で、戦線の拡大を画策する将校たちもいた。しかし、それ以上に、世論が戦争を望んでいた。それが決定的だったのである。民主主義は必ず戦争への道を突き進む。それは制御不能である。

では、ファシズムならばよかったのか。そうではない。そもそも法治国家であったことが問題である。法治主義ほど野蛮な思想はない。

5

アメリカは、フィリピンを一九四六年に独立させる、という約束をしていた。だから、あの戦争がなくても、フィリピンは独立していたかもしれない。しかし、それは仮定の話である。事実は、大東亜戦争が終わった後で、フィリピンは独立した。

彼らが約束を守ったかどうか、私には分からない。守ったかもしれないし、守らなかったかもしれない。アギナルドの例を見れば、守らなかった、という可能性も皆無とは言えないだろう。だが、どちらにしろ仮定の話である。

日本はアメリカを侵略したのであって、フィリピンを侵略したのではない。日本はイギリスを侵略したのであって、ビルマを侵略したのではない。日本はオランダを侵略したのであって、インドネシアを侵略したのではない。

我々は他人の間違いを正そうとしたのであって、我々自身が間違いを犯したわけではない。彼らが武力によって獲得した土地を、我々が武力によって奪い返していけないわけがあろうか。欧米人が日本の侵略行為を吹聴するのは、彼らの負け惜しみに過ぎない。

我々はアジア人として戦い、これらの土地をアジア人の手に返した。ゆえに、あの戦争は我々の勝ちである。

アメリカは、アジアにおける利権を求めて戦争を始めたが、日本はその試みを尽く退けた。ルーズベルトは、自分が敗北することを知らずに済んだわけである。

6

あの戦争に関して、一つだけ残念なことがあるとすれば、それは、日本軍と釣り合うだけの敵がいなかったことだろう。

東条英機は、自分の人生を信の一点に捧げた男だった。彼の信念と比べれば、ルーズベルトの肝っ玉は小さすぎる。そのために、日本兵の武者ぶりが十二分に発揮できなかったということは、返す返すも残念なことである。

だが、もしかすると、次の機会があるかもしれない。そのときには、世界中に天晴れと言わせてやれるだろう。

 子曰、甯武子、邦有道則知。邦無道則愚。其知可及也。其愚不可及也。

<遊牧民の世界史 終>

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