現代語訳大智度論 第六巻(上)

(大智度初品中十喩釋論第十一 第六巻)

初品の中の十種の比喩を解説する。

(これらの菩薩は)諸々の現象は幻のようであり、陽炎のようであり、水中の月のようであり、空間のようであり、響きのようであり、蜃気楼のようであり、夢のようであり、影のようであり、鏡の中の像のようであり、化のようである、と理解する。

この十種の比喩は、空を理解するためのものである。

一. 幻の比喩

問 1

もし、すべての現象が空であり、幻のようであるならば、どうして見ることができ、聞くことができ、嗅ぐことができ、なめることができ、触ることができ、知ることができるのか。本当に存在するものが無いのだとすれば、どうして見ることができ、・・・、知ることができるのか。

また次に、何も存在しないのに妄想によって見るのだとすれば、どうして声を見たり、色を聞いたりすることが無いのか。すべてが空であり存在しないのだとすれば、何によって、見られるものと見られないものが区別されるのか。

空であるということは、人差し指に一つ目の爪が無く、二つ目の爪も無いようなものである。どうして我々は、二つ目の爪を見ることはないのに、一つ目の爪だけを見るのだろうか。その理由は、一つ目の爪は実在するから見ることができ、二つ目の爪は実在しないから見ることができない、ということである。同様に、声が実在するから、我々は声を聞くことができるといえる。つまり、声は空ではない。

すべての現象は空であるが、見られるものと見られないものの区別はある。例えば、幻として現れた象や馬などを考えれば分かる。それらは実際には存在しないけれども、姿を見ることができ、声を聞くことができる。幻だからといって、五感の対象に錯乱が起きるわけではない。諸々の現象も同じである。空であるからといって、見られるものと聞かれるものとが混乱することはない。

『徳女経』は次のように説く。徳女は仏に言った、「世尊よ、無明は私の中にあるのか」。仏は答えた、「否」。「外にあるのか」。「否」。「内と外の両方にあるのか」。「否」。「世尊よ、無明は前世から来たのか」。「否」。「現世から来世に至るのか」。「否」。「無明には生成・消滅があるのか」。「否」。「確定した性質を持つ、ある事象を、無明と呼ぶのか」。「否」。そのとき徳女は再び仏に語った、「もし無明が内にも無く、外にも無く、内と外の両方にも無く、前世から現世に至り、現世から来世に至るのでもなく、確定した性質を持つのでもないとすれば、どうして無明が我々の行いの原因となり、究極的には様々な苦しみの原因となりうるのか。世尊よ、どうして根のない木が、枝葉をつけ、花を咲かせ、果実を実らせることが出来ようか」。仏は言った、「諸々の現象は確かに空であるが、凡夫は無知のために、種々の煩悩を生じ、煩悩が原因となって、身体と言葉と心による行いを生じ、それらの行いが原因となって、来世の身体を作り、身体を原因として苦しみや楽しみを受ける。しかし、実際には煩悩が作られることは無く、身体と言葉と心による行いも無く、苦しみや楽しみを受ける者もいない。例えば、奇術師が種々の幻を作り出すようなものである。あなたはどう思うか、幻が行う行為は、幻の内にあるか」「否」「外にあるか」「否」「内と外の両方にあるか」「否」「前世から現世に至り、現世から来世に至るか」「否」「幻が行うことは生成・消滅するか」「否」「幻が行うことは、実在する事象なのか」「否」「あなたは幻が音楽を演奏するのを、見たり聞いたりしたことがあるか」「見たことがあり、聞いたことがある」。仏は徳女に尋ねた、「もし幻が空であり、実在しない欺瞞ならば、どうして幻が音楽を奏でられるのか」。徳女は仏に答えた、「世尊よ、この幻はあるがままで本質を持たないが、見て、聞くことができる」。仏は言った、「無明も同様である。内にあらず、外にあらず、内外にあらず、前世より現世に至らず、現世より来世に至らず、本質無く、生成・消滅も無い。しかも無明を原因として諸々の行いが生じ、苦しみが生じる。幻が消えれば、幻が行うことも消える。無明もまた同じである。無明が尽きれば行いも尽き、苦しみに至るまでの全ての結果も尽きる」。

また次に、この幻の喩えは、あらゆる現象が空にして堅固なものではないことを人々に示すためのものである。あらゆる現象は幻が子供をだますように、因縁によってあるので自ら在らず、久しくは存在しない。

以上の理由から、菩薩はすべての現象が幻のようなものであることを知る、と説く。

二. 陽炎の比喩

「陽炎のようである」とはどういうことか。陽炎は、日光の下で風が塵を動かすために生じる。荒野のなかの野馬のように、無知の人は初めてこれを見て、水だと思う。男や女もこれと同じである。煩悩が日光の熱、因縁によって生じた現象が塵、よこしまな思いが風である。煩悩の下で、よこしまな思いが、種々の現象を動揺させる。知恵のないものはこれを男と思い、女と思う。これが陽炎の喩えである。

また次に、遠くに陽炎を見て水だと思っても、近付くと水は無い。無知の人はこれと同じである。聖なる教えから遠ざかれば無我を知らず、あらゆる現象が空であることを知らない。認識・感覚・感覚の対象と心的作用のすべてが空であって、人・男・女という性質はその中から一時的に現れたものに過ぎない。聖なる教えに近づくと、物事の真実のあり方を知り、すべての妄想は除かれる。

以上の理由から、菩薩はすべての現象が陽炎のようなものであることを知る、と説く。

三. 水中の月の比喩

「水中の月のようである」とはどういうことか。月は虚空の中に存在するが、水の上に影となって現れる。物事の本来の性質が月である。月は、物事の究極の性質のように、虚空の中に存在するが、凡人の心は水の中にあり、自分のものにこだわる心となって現れる。これを水中の月の喩えという。

また次に、子供は水中の月を見ると、喜んでこれを取ろうとする。大人はこれを見て笑う。無知の人はこの子供と同じようなものである。自分の身体が存在していると信じているので、自我の存在を信じる。本当の知恵が無いために、種々の存在を信じてしまう。信じ込んで喜び、男、女など、様々なもの、あるいは人を得ようとする。道を得た聖者はこれを見て笑う。詩にあるように、

『水中の月、陽炎の中の水のように、夢の中で財を得、死の中に生を求める。人がこの生の中で実際に何かを得ようとすれば、この人は愚かで惑わされている。聖人の笑いものである』。

また次に、例えば、静かな水の表面には月の影を見ることができるが、水がかき乱されると、月の影は見えなくなる。無明の心という静かな水の面には、自我や驕慢、諸々の煩悩の影が見られるが、真実の知恵という杖で心の水面をかき乱すと、自我などの煩悩の影は見えなくなる。

以上の理由から、菩薩はすべての現象が水中の月のようなものであることを知る、と説く。

四. 空間の比喩

「空間のようである」とはどういうことか。ただ名前だけがあって、実際の存在は無い。空間それ自体を見ることはできないが、遠くにあるものを見るときに、目に届く光が薄い青色に見える。諸々の現象もこれと同じく、空であり実在しない。汚れのない真実の知恵から遠ざかっているために、ものごとの本来の性質を捨てて、他人と自分、男と女、家と城など様々なものを見る。これらのものに心が執着することは、子供が空の青さを見て、それを実際の色だと思うようなものである。ある人が遠くまで飛び上がってみても、見えるものはない。ただ遠くを見るために青く見えるだけである。諸々の現象もこれと同じである。これを空間の喩えという。

また次に、空間は常に清浄であるが、人はこれを曇っていて不浄であると思うことがある。諸々の現象もこれと同じである。本来の性質は常に清浄であるが、貪欲や怒りなどに曇らされるために、不浄であると思われるのである。詩に言う、

『夏の空が雷電を発して雨を降らせ、黒雲が空を覆って清浄ではないように、凡夫の無知もこれと同じく、種々の煩悩が常に心を覆っている。

冬の空にひととき太陽が現れても、だいたいは空に雲がかかって薄暗いように、初果と第二道を得たと言っても、なお欲望の汚れが心を覆っている。

あるいは春の空に太陽が出ようとしているときに、雲が生じて空を覆ってしまうように、欲望の汚れを離れて第三果を得たと言っても、残余の愚かさと驕慢がまだ心を覆っている。

秋の空に雲一つないように、大海の水が清浄であるように、修行を終えて煩悩を滅した阿羅漢は、そのように清浄である。』

また次に、虚空には初めが無く、中間が無く、終わりが無い。諸々の現象もこれと同じである。

また次に、大乗のある経の中で仏がスブーティに次のように語っている。「空間には前世がなく、現世がなく、来世がない。諸々の現象もこれと同じである」。これ故に諸々の現象は空間のようであると説く。

問 2

空間は実在する。もし空間が実在しないとすれば、運動するための場所が存在しないことになる。その場合、上げたり、下げたり、行ったり、来たり、曲げたり、伸ばしたり、出たり、入ったりなどの動作はありえないだろう。したがって、空間は実在する。

もし空間が実在するならば、空間はどこにあるのだろうか。というのも、存在する場所がなければ何も存在できないから。もし、空間が穴の中にあるとすれば、空間が空間の中にあることになるだろう。したがって、穴の中にあるとは言えない。もし物体の中にあるとしたら、物体の内部は物体でしかないから、空間が存在できる場所はない。したがって、物体の中にも空間はない。

また次に、場所そのものが空間だとしよう。例えば、石壁のなかには物を置ける場所は存在しない。場所がないならば、空間も存在しない。空間が存在する場所がないことは先に示した通りだから、空間は存在しない。

また次に、空間には性質がないから、空間は存在しない。諸々の現象にはそれぞれ性質がある。性質によって、それが存在することを知ることができる。地には堅いという性質が、水には湿ったという性質が、火には熱いという性質が、風には動くという性質が、認識には認識という性質が、知性には理解という性質が、世間には生死という性質が、涅槃には寂滅という性質がある。しかし、空間にはこのような性質がないから、空間は存在しない。

問 3

空間には性質がある。あなたはそれを知らないために、空間は存在しないと主張するのだ。物質が存在しないということが空間の性質である。

そうではない。物質が存在しないということは、物質が存在しなくなったということである。他の意味はない。灯が消えるようなものである。このために、空間には性質がない。

また次に、空間は無である。なぜかといえば、あなたは物質に注目して、物質が存在しないことを空間と呼ぶ。したがって、物質がまだ生じていないならば、空間も存在しないことになる。また次に、あなたは、物質は無常であり、空間は恒常であるという。それならば、物質がまだ存在しないときでも、空間が先に存在しなければならないだろう。というのも、空間はいつでも存在するから。またもし、物質がまだ存在しないならば、物質が存在しないということも無いだろう。物質が存在しないことが無いならば、空間の性質も存在しないだろう。性質のないものは無である。ゆえに、空間は名前だけのものであって、実際は存在しない。あらゆる現象もこれと同様に、ただ名前だけがあって、実際には存在しない。

以上の理由から、菩薩はすべての現象が空間のようなものであることを知る、と説く。

五. 響きの比喩

「響きのようである」とはどういうことか。山奥の渓谷で、あるいは絶壁の深い谷で、あるいは人のいない講堂で、声の音や、あるいは打つ音の、音に従って音があることを響きという。無知の人は、人がいて話をしているのだと考える。知恵ある人は心の中で考える、「この声は人が作ったものではなく、ただ声が触るために次の声があるだけである。これを響きというのだ」と。響きは空であり、耳を誑かす。人が話そうとするとき、口の中に生じる風をウダーナという。風が体の中に帰って、へそに触れて響きを出す。響きが出るとき七か所に触れて消える。これを発声という。詩に言う、

『風をウダーナと名付ける。へそに触れて上り去る。この風、七処に触れる。七処とは、首筋と歯茎、歯、唇、舌、喉、胸である。この中で言葉は生まれる。

愚かな人はこれを解さず、迷い執着して怒りと妄想を起こす。中道の人は知恵あって、怒らず、また執着せず、愚痴ならず。

ただ諸々の現象が、曲直・屈伸・去来するのに随って、言葉が現れるだけである。すべて作者がいるわけではない。

このことは一体、幻だろうか、機械人形がしたことだろうか、夢の中のことだろうか、熱気に中てられたのだろうか、これはあるのだろうか、ないのだろうか、これを誰が知っていよう。骸骨が筋肉をまとい、言葉を話すことは、例えば溶けた金を水に投げ入れるようなものである』。

以上の理由から、菩薩は諸々の現象が響きのようであることを知る、と説く。

六. 蜃気楼の比喩

「蜃気楼のようである」とはどういうことか。日が昇り始めたとき、城門や楼閣、宮殿に人が出入りするのを見る。日が高くなると消えてなくなる。この城はただ目に見えるだけで、実際には存在しない。これを蜃気楼(ガンダルヴァ城)という。ある人は、初めは蜃気楼を見ない。朝に東を向いてこれを見て、城があると思い、楽しんで急いで向かう。しかし、だんだん近づくにつれて、城は見えなくなっていき、日が高くなると消えてしまう。やがて、飢渇の悶えが極まり、熱気を見て、野馬のようにこれを水だと思い、走って行くが、近づくほどに消えてしまう。疲れが極まり難儀して、深山の峡谷に至り、大声で泣き喚くとこだまが聞こえてくる。住人がいると思って探し回るが、疲れるばかりで誰も見つからない。そこで、立ち止まって考えてみて自ら悟り、渇きを癒そうとする心が止む。無知の人はこのようである。認識と感官、感覚の対象、心的作用は空であるが、その中に自我と諸々の現象を見出す。貪欲と怒りの心に執着して、四方に走り回り楽しみを求め、自ら満足する。倒錯、欺瞞、懊悩の極み。知恵によって、自我なく、ものの本性なしと知れば、倒錯した願いは止む。

また次に、蜃気楼は楼閣ではない。人の心が楼閣だと思い込む。凡夫もまたこれと同じく、身体ではないものを身体と思い、心ではないものを心と思う。

問 4

一つの比喩で十分なのに、どうして多くの比喩を使うのか。

それはすでに答えている。大乗は大海の水のように、すべての教えを含んでいる。因縁が多いために比喩も多いだけで、過失はない。また次に、この菩薩は深遠な知恵を持っているために、種々の法門、種々の因縁、種々の比喩によって諸々の現象を破壊する。人に理解させるために多くの比喩を用いるのである。

また次に、どの小乗の教えにも蜃気楼の喩えは載っていない。代わりに、他の様々な無常の喩えがある。物質は泡沫のようであり、感受は泡のようであり、表象は野馬のようであり、意志は芭蕉のようであり、認識は幻、あるいは幻の網のようである、などという。経の中で、空の比喩として蜃気楼を持ち出すのも、これと変わらない。

問 5

小乗の教えの中では、城によって身体の喩えとしている。この経の中では、どうして蜃気楼の喩えを出すのか。

小乗の教えの中では、城によって、人間を構成する五つの要素が実在するものであり、ただ城という名前だけが仮のものである、ということを喩えている。一方で、蜃気楼の喩えでは、人間を構成する五つの要素もまた無であることを説くから、これらは同じ比喩ではない。

たとえば、振り回された松明の火が、人の眼には赤い輪に見えることがあるが、実際には輪があるわけではない。それと同じように、小乗の教えでは、自我という概念を破壊するために城の喩えを用いる。他方、この菩薩は知恵が優れ、諸々の現象が空であるという真理を深く理解しているために、蜃気楼の喩えを説くのである。以上の理由から、蜃気楼の喩えを説く。

七. 夢の比喩

「夢のようである」とはどういうことか。夢の中では無いものをあると考え、目が覚めてから無いと知り、自分を笑う。人もこれと同じである。諸々の煩悩の眠りの中で、現実には存在しないものに執着する。悟りを得て目覚めたときに、それが存在しないものであることを知り、自分を笑う。このような意味で、「夢のようである」と言う。

また次に、夢の中では眠りの力によって、実在しないものを見る。人もこれと同じである。無明という眠りの力によって、種々の無を有と見る。いわゆる、自分のものや男・女などである。

また次に、夢の中では、喜ぶようなことがないのに喜び、怒るようなことがないのに怒り、怖がるようなことがないのに怖がる、という状態を経験する。三界の人々もこれと同じである。無明という眠りのために、怒るべきでないのに怒り、喜ぶべきでないのに喜び、怖がるべきでないのに怖がる。

また次に、夢には五種類ある。身体に不調がある時、熱気が多ければ、火、黄色、赤色の夢をよく見る。冷気が多ければ、水、白色の夢をよく見る。風の気が多ければ、飛ぶ夢、黒色の夢をよく見る。また、見聞きし、思惟することが多ければ、夢を見る。あるいは、天が夢の中で未来の事故を知らせようとして夢を見る。

これら五種類の夢は、みな実在しないものを見ている。人もこれと同じである。五道の中の衆生は、心身が存在するという思いによって、四種類の方法で「私」を見る。肉体が私である。肉体は私のものである。私の中に肉体がある。肉体の中に私がある。これを我見という。

人間を構成する五つの要素(身体、感覚、認識、表象、意志)に、それぞれ四種類の我見があるから、合計で二十種類の我見があることになる。悟りを得て、本当の知恵に目覚めたとき、「私」が実際には存在しないことを知る。

問 6

夢の中のものが実在しないとは言えない。認識の原因となるものがあり、それによって夢の中で認識を生じ、また種々の条件が揃うことで夢が現れる。もし何の原因もないならば、夢の中でも認識が生じることは無いだろう。

無にして見るはずがないものを見る。夢の中で人の頭に角が生えているのを見たり、自分の身体が空を飛んでいるのを見たりする。しかし、人には角はなく、空を飛ぶこともできない。ゆえに、夢は実在しない。

問 7

実際に人には頭があり、他の所には角もある。心が惑わされて、人の頭に角があるのを見ることもあるだろう。また、実際に空はあり、空を飛ぶ動物もいる。心が惑わされて、自分が空を飛んでいるのを見ることもあるだろう。だからといって、実際には存在しない対象を見ているのだとは言えない、それぞれの対象は実在するのだから。

実際に人に頭があり、角があるとしても、人の頭に角が生えているのを見るのは妄想である。

問 8

世界は広く、前世の因縁は様々である。もしかすると、他の国には、頭に角が生えている人がいるかもしれない。手が一つ、足が一つしかない人や、身長が一尺しかない人や、頭が九個ある人もいるかもしれない。角が生えている人がいても、おかしくない。

あなたの言うように、他の国には、角が生えている人もいるかもしれない。しかし夢の中で、この国にいる知人の頭に角が生えているのを見たとしたら、それは実在するとは言えないだろう。

また次に、人が夢の中で、空間の限界と、方向の限界と、時間の限界を見たとしたら、これを実在するものだといえるだろうか。空間もなく、方向もなく、時間もない場所がどこにあるだろうか。ゆえに、夢の中では無いものを有ると見ているのである。

あなたは先に、原因がないのにどうして認識が生じるのか、と言った。外界からの作用がなくとも、自分自身の思惟の作用が働くことで、認識の対象が生じる。たとえば、人に二つの頭があるという話を聞いて、それを想像してしまうことがある。夢の中で、実際にはないものを見てしまうのも、これと同じである。

諸々の現象も夢と同じである。それらの現象は存在しないにもかかわらず、我々はそれを見て、聞いて、知ることができる。詩に言うように、

『夢の如く、幻の如く、蜃気楼の如く、一切諸法もまたこのようである』。

以上の理由から、菩薩は諸々の現象は夢のようであると知る、と説く。

八. 影の比喩

「影のようである」とはどういうことか。影は見ることはできても、捉えることはできない。諸々の現象もこれと同じである。眼の見る作用、耳の聞く作用などは捉えることができない。詩に言う、

『この真実の知恵は、どの方向でも捉えがたい。大きな炎のように触ることができない。対象を受けることはできず、受ける方法もない』

また次に、影は、光に照らされれば現れ、光に照らされなければ現れない。諸々の煩悩が、正しいものの見方という光を遮るから、自我と現象という影が現れる。

また次に、影は、人が去れば去り、人が動けば動き、人が立ち止まれば立ち止まる。善悪の行いという影もこれと同じである。人が来世に去れば、善悪の報いもまた去り、人が現世に留まれば、善悪の報いも留まる。原因と結果のつながりが断絶することはないから、苦しみと幸せは、時が熟せば現実となる。詩に言う、

『空中にも追いかけてゆき、山石中にも追い、地底にも随ってゆき、海水中にも入ってゆく。どこに行っても、常に随い追いかける。業の影は離れない』

以上の理由から、諸々の現象は影のようである、と説く。

また次に、影は空にして無であり、実体を求めても得られない。あらゆる現象もこれと同じく、空にして無であり、実体がない。

問 9

影は空にして実体がないと言うが、そうではない。論書に説かれている、「視覚されるものは何か。青黄赤白黒青紫、光、影等と、身体による行いが作る三種の表現である。これらを視覚の対象という」。あなたはどうして影に実体がないというのか。

また次に、影が作られる原因があるから、影は実在する。原因が木であり、条件が光である。この二つの事柄が共に働くことで影が生じる。どうして影が無いと言えようか。もし影が無いとすれば、他の原因によって生じるものも、すべて存在しないと言わねばならない。

また次に、我々は影の形を見ることができる。長短・大小・粗細・曲直・など。形が動けば影も動く。これらはみな、見ることができる。したがって、影はある。

影は実際には空にして無である。あなたが引用する説は、論書の解釈の一つにすぎない。ある学派の人々はその真意を理解せずに、実体という考えにこだわっている。

鞞婆沙(ヴィパーシャ)の中では次のように言われている、「物質の最小要素は破壊できず、焼くことができないため、恒常不変である。また、過去・現在・未来の三世に存在する法は、未来から現在に至り、現在から過去に入るが、消滅するわけではない。これを恒常という」。また、「あらゆる存在は常に生成消滅し続け、持続しない」とも言われている。もしそうならば、それは断滅論に陥る。なぜなら、以前は存在していたものが、今は存在しなくなるからである。

このような種々の説明は仏の言葉に相違しているため、これを証拠としてはならない。

いま、影は物質とは異なっている。物質が存在するためには、香りや味覚、触り心地を備えていなければならない。しかし、影はそれらの性質を持っていない。なぜかといえば、存在するものではないからである。

例えば瓶は、二つの感覚器官によって知ることができる。視覚と触覚である。影が実在するのであれば、やはり二つの感覚器官によって知ることができるはずである。しかし、実際はそうではない。それゆえに、影には実体があるわけではない。ただ我々の眼が騙されているだけである。例えば、松明を振り回した時に、火の輪っかが見えてしまうようなものである。速く回転させれば輪っかが見えるが、実際に輪っかがあるわけではない。

もし影が実在するならば、壊すことも消滅させることもできるだろう。しかし、影を作り出している本体が壊れない限りは、影がなくなることはない。したがって、影は空である。

また次に、影は本体に依存し、自力で存在しているわけではない。ゆえに空である。空であっても心の中に像を作り出す。以上の理由から、諸々の現象は影のようである、と説く。

九. 鏡の中の像の比喩

「鏡の中の像のようである」とはどういうことか。鏡の中の像は、鏡が作ったものでもなく、鏡に映されたものが作ったのでもなく、鏡を持つ人が作ったのでもなく、自然にできたのでもなく、原因なしに生じたのでもない。

1.なぜ、鏡が作ったのではないと言えるのか。
鏡に映されるものの形がまだ鏡に達しないうちは、像が生じることはないから。(したがって、鏡が作ったのではない。)

2.なぜ、鏡に映されたものが作ったのではないと言えるのか。
鏡がなければ像はないから。

3.なぜ、鏡を持つ人が作ったのではないと言えるのか。
鏡もなく、鏡に映されるものもなければ、像は生じないから。

4.なぜ、自然にできたのではないと言えるのか。
いまだ鏡もなく、鏡に映されるものもなければ、像は生じない。像は、鏡があり、鏡に映されるものがあって、はじめて存在する。したがって、自然にできたのではない。

5.どうして原因なしに生じたのではないと言えるのか。
もし原因なしに存在するのだとすれば、消滅することはないだろう。消滅する理由がないから。鏡も鏡に映されるものも原因ではないなら、それらのものがなくとも、像は自然に出現するだろう。したがって、原因なしに生じたのではない。

諸々の現象もそのように、自ら作ったのでもなく、他に作られたのでもなく、自他の両者によって作られたのでもなく、原因なく生じたのでもない。

1.なぜ、自ら作ったのではないのか。
自分自身というものは存在しえないから。原因から生じたものはすべて自分だけで存在しているのではないから。諸々の現象は原因に依存しているから。

2.なぜ、他によって作られたのではないのか。
自分自身が存在しえないのであるから、他者も存在しえない。(他者にとっての自分自身も存在しないから)。
もし、他者によって作られたのだとすれば、善悪の果報を受けることもないだろう。他者によって作られるものには二種類ある。一つは善、一つは不善である。もし善なるものとして作られたのだとすれば、一切の楽が与えられるはずである。もし不善なるものとして作られたのだとすれば、一切の苦が与えられるはずである。もし、善と不善の両者の性質を持つものとして作られたのだとすれば、どうしてある時には楽が与えられ、ある時には苦が与えられるのか、その理由を説明できない。

3.なぜ、自他の両者によって作られたのではないのか。
自ら作ったとしたときの誤りと、他によって作られたとしたときの誤りの、二つの誤りがあることになるから。

4.なぜ、原因なしに生じたのではないのか。
原因なしに苦楽が生じるのだとすれば、我々はどちらでも好きな方を選べるだろう。あるいは、苦楽に原因がないとすれば、楽の原因を作ることも、苦の原因を除くこともできないだろう。どちらも非現実的である。

すべての現象には原因がある。愚かなためにそれに気付かないだけである。例えば、人は木から火を作り、地から水を出し、扇によって風を起こす。これらには、それぞれ原因がある。では、苦楽の原因は何かといえば、前世の業である。現世での正しい行い、間違った行いは、来世において苦楽を生む。この苦楽の原因は、真実によって求めれば、人が作ったものでもなく、人が受けるものでもない。(真実の道は)五蔭が作ったものを空じ、五蔭が受けるものを空じる。無知の人は、楽を得れば貪欲を生じてそれに愛着し、苦を得れば怒りを生じる。この楽が消えたときは、さらに求めて得ようとする。子供が鏡の中の像を見て、楽しみ愛着して己を忘れ、鏡を壊して像を求めるようなものである。智者はこれを笑う。楽を失ってさらに求めるのもこれと同じく、道を得た聖者に笑われる。このために、諸々の現象は鏡のようであると説く。

また次に、鏡の像は空であり、生じることも消えることもないが、人の眼を惑わせて、それがあるように見せる。すべての現象も同じく、空にして実体なく、生じることも消えることもないが、凡夫の眼を惑わせて存在しているように見せる。

問 10

鏡の中の像は原因があって生じる。鏡に映されるものがあり、鏡があり、鏡を持つ人があり、明かりがあり、これらが共同して働くために像が生じる。この像によって憂いや喜びを生じ、それが原因となって他のことが生じることもあり、それ自体が苦楽という結果を与えることもある。どうしてそれが空であり、生じず消えずというのか。

原因によって生じ、自分だけで存在しているのではないから空である。もしある現象が本当に存在しているといえるならば、それは原因から生じたのではない。なぜなら、もし原因のなかにすでにそれが存在していたのであれば、(それ自体が結果であるから)、原因は必要ではなくなる。一方、もし原因のなかにすでにそれが存在していたのでなければ、原因があってもそれが存在するようにはならないからである。

例えば、牛乳の中にすでにチーズがあるなら、牛乳はチーズの原因ではないだろう。作られるより先にチーズがあるのだから。一方、もし初めから牛乳がチーズを含んでいないとすれば、水の中にチーズがないと同様に、牛乳もチーズの原因ではありえない。もし原因なくしてチーズがあるなら、どうして水からチーズができないのか。また、牛乳がチーズの原因だとするなら、牛乳も自分自身で存在するのではなく、原因によって生じたものである。牛乳は牛によってあり、牛は水や草によってある。このように、どのような現象にも原因は無限にある。したがって、原因のなかに結果があると言うこともできず、ないと言うこともできず、有りかつ無いと言うこともできず、有るのでもなく無いのでもないと言うこともできない。

諸々の現象は原因から生じて、自分自身によって存在するという性質を持たないことは、鏡の中の像のようである。

『もしある現象が原因によって生じたならば、それは空である。
 もしこの現象が空でないなら、原因によって存在するのではない。
 例えば、鏡の中の像のように、鏡が作ったのでもなく、鏡に映されたものが作ったのでもなく、
 鏡を持つ人が作ったのでもなく、自ら生じたのでもなく、原因なく生じたのでもない。
 有でもなく、無でもなく、有無でもなく、
 この言葉も受け入れない。これを中道という。』

十. 変化の比喩

「変化(へんげ)のようである」とはどういうことか。

十四の変化心がある。
初禅に二つ、欲界と初禅。
二禅に三つ、欲界と初禅と二禅。
三禅に四つ、欲界と初禅と二禅と三禅。
四禅に五つ、欲界と初禅と二禅と三禅と四禅。

この十四の変化心は八種の変化を行う。一つは小さくなり、微塵に至る。二つは大きくなり、虚空に満ちる。三つは軽くなり、鳥の羽のようになる。四つは自在になり、大きいものを小さくし、長いものを短くする。五つは主力(?)がある。六つは遠くまで行ける。七つは大地を動かす。八つは思いのままに何でも得られる。一身を多身とし、多身を一身とし、石壁を通り抜け、水の上を歩き、空の上を歩き、日月を手に取り、四大を変化させ、地を水と四、水を地とし、火を風とし、風を火とし、石を金とし、金を石とする。

この変化は四種に分けられる。欲界の薬草・宝物・幻術は諸物を変化させる。神通のある人は神通力によって諸物を変化させる。天龍鬼神は生得の力で諸物を変化させる。色界の人々は生まれながらに瞑想の力があるので、諸物を変化させる。

変化によって作り出された人々が生老病死なく、苦楽なく、人と異なる発生をするように、あらゆる現象も生住滅なく、空である。以上の理由から、諸々の現象は変化のようである、と説いている。

また次に、変化の力によって生まれた者には定まった実体がなく、ただ心が生じるために行いがあるだけで、実体がない。人間の身も同じく、定まった原因がない。ただ前世の心にしたがって現世における身体が生じ、実体があるわけではない。変化の場合、心が消えれば変化も消える。諸々の現象もこれと同じく、原因が消えれば、結果も自然に消滅する。変化の術も、実際には空であって、人々に悲しみ、苦しみ、怒り、喜び、楽しみ、惑いを生じさせる。変化によって生じたものは、始まりがなく、中間がなく、終わりもない。諸々の現象も同様である。

変化は清浄であり、大空が汚されることがないように、罪業と福徳のために汚されることがない。諸々の現象も同様である。真理がありのままであるように、物事の本来の性質が自然に清浄であるように。例えば、世界の四大河にそれぞれ五百の小河があり、これらの水はそれぞれ不浄であるが、大海に入れば清浄になるようなものである。

問 11

変化が空であるとは言えない。変化の心は瞑想の修業によって得られ、この心から種々の変化が生じるから。変化を作った人が原因であり、生じた変化が結果である。どうして空であろうか。

影の喩えの箇所ですでに答えたが、再度答えよう。原因は存在するが、結果としての変化は空である。それは口から出た言葉に実体がないようなものである。心は言葉を生じるが、その言葉が心や口によって存在しているとは言えない。言葉には実体がないが、たしかに存在するものである。

もし、二つ目の頭、三つ目の手があるといえば、この言葉が心と口から出たとは言えるが、実際に二つ目の頭や三つ目の手があるわけではない。仏が説くには、「生じることのないものについての困難は、生じることのあるものを観察することによって逃れることができる。作られたのではないものについての困難は、作られたものを観察することで逃れることができる。生じることのないものは無であるけれども、それはものごとの原因となることができる。作られたのでないものも同様である」。

変化は空であるが、これはまた心という原因によって生じたものでもある。たとえば、幻、炎などの九つの比喩のように、無でありながら種々の心を生じることができる。

次に、変化は六因四縁(アビダルマによる原因の分類)の中に原因を求めることはできない。六因四縁に含まれていないために空である。

次に、空は見えないことによって空といわれるのではなく、実際の効用がないために空といわれる。以上で、諸々の現象は変化のようである、ということについて説明した。

問 12

以上の十の比喩が、すべて空であって異ならないとすれば、どうしてこの十個だけを喩えとし、山河石壁などを喩えとしないのか。

諸々の現象は空であるが、区別はある。理解しにくい空があり、理解しやすい空がある。今は理解しやすい空によって、理解しにくい空を喩えたのである。

次に、諸々の現象に二種類ある。心が執着するものと、執着しないものである。心が執着しないものによって、執着するものを喩えたのだ。

問 13

この十種の比喩は、どうして心が執着しないものなのか。

この十種は長く留まらず、生じやすく消えやすい。したがって心が執着しないものだといえる。

次に、この十種が耳目を惑わすものだと知っている人がいたとしても、諸々の現象が空であることは知らないから、これによって喩える。もしこの十種の比喩が理解できず、これらを有であると考えるならば、この十の比喩は役に立たないから、さらに他の教えを説く。

問 14

諸々の現象が空であって、生成せず消滅しないならば、この十の比喩や種々の原因に関する議論は、すべて空であることをあなたは知っている。もし諸々の現象が空であるならば、この比喩は比喩になっていないのではないか。この比喩が意味を持つとすれば、この比喩の中に出てくる諸々の現象は空ではないことになるだろう。

私は空を説いて、諸々の現象が存在することを否定しようとしている。いま述べたことを、有についてのこととした場合については、上の質問で答えた。無についてだとしても、非難すべきでない。たとえば、座長の僧が声高に、手を挙げて「全員、静粛に」と言うようなものだ。これは声によって声を遮ろうとしたのであって、声を出すためにしたことではない。この場合と同じく、諸々の現象について語ったが、それは空を説くためであるから空であり、不生不滅を説くためであるから不生不滅である。人々を哀れむためにこの比喩を説くが、存在するものについて説くのではない。以上の理由から、諸々の現象は変化のようである、と語る。

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