LGBTについて

最近はLGBTというものが流行っているらしい。これは、セックスというものは自由であるべきだ、ということを言いたいのだろうが、人類の歴史から見ればそれは当たり前のことであって、むしろ現在のような価値観、つまりヘテロセックスだけが正常であり、ホモセックスは異常だという考え方のほうが、文化史の上では異常なものだと言えるだろう。

たとえばボーイズラブ、つまり衆道というものは本来男のものであって、それを女が独占している現在の状況こそが異常である。これは歴史的には美少年の問題としても現れるものであり、たとえば平家物語に出てくる源義経は、美少年でなければならない。実際に彼が美少年であったかどうかはともかくとして、美少年が先頭に立って軍隊を率いるというところに、美学とロマンがあった。このイメージは太平記にも現れ、一種の文学的な美意識となっている。

古代ギリシャにおける神聖隊の例を出すまでもなく、少年と成人男性の間に結ばれる愛情と信頼の関係は、古今東西あらゆる場所に見られるものである。日本でそれが最も顕著に現れるのは戦国時代のことだろう。信長と蘭丸の例のように、小姓をそばに置くことは、武将の間では当たり前のことだったと考えられる。

昔の日本では、武家の子弟がある年齢に達すると年長の武士に預けられ、身の回りの世話をするという風習があった。そうすると、少年は自然と大人の男に憧れ、彼を慕うようになる。そして、そのように年下の少年に慕われることで、年長の男は非常に大きな満足を覚え、この少年のためならどんなことでもやってやろう、という気になる。この信頼関係は、思春期の少年の思いの一途さのために、ときに非常に強いものとなる。そのような信頼関係を通して、教育が効果的に行われ、少年は成長して大人になるという、一種の通過儀礼のような意味合いもあったのかもしれない。

武将たちが少年をそばに置いていたのは、彼らの忠誠心が一番信用できたからだろう。それは近代においては、ヒトラーユーゲントの活躍の中にも見られるものである。権力者が自分の身辺を守らせるためには、精神的な絆によって結ばれた若者が最も適していた。

また、南方熊楠も言っている通り、衆道には二種類あって、肉体的な関係を持つものと、持たないものとがある。後者はプラトニックな関係と呼んでもいいだろう。勝手な想像だが、衆道の中では、むしろ後者の方が一般的だったのではないかと思う。これをセックスと呼ぶのは無粋な感じもするが、しかし、それが恋愛に近い感情であることに違いはない。むしろ男女間の恋愛よりも強烈なものではないかと思う。

以上の例からも分かるように、人類にとってセックスは本来自由なものであり、現代の価値観は窮屈すぎるのである。そしてそのような価値観がどこに由来するのかというと、それは考えるまでもなくキリスト教であろう。キリスト教のヘテロセックスに対する執着は異常であり、精液を無駄にすることを罪だとすら考えている。また堕胎を禁止するなど、子供を産むことに不思議なほどのこだわりがある。

そのキリスト教のセックス観がどこから来たものかは分からないが、現在のヘテロセックスのみを是とする価値観がここに由来することは断定してもよいと思う。これをいかに克服するかということが、今後の我々の課題であろう。敢えて言うならば、セックスは子供を作るためのものではない。もっと広い意味を持つものである。

参考文献

千葉徳爾『たたかいの原像』平凡社、1991

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