精神の本質

English version

1 序論

1.1

 我々の精神は、どこにあるのだろうか。
 もしも精神が存在するものであるならば、それが存在する場所がなければならない。それは、我々の身体の中にあるのだろうか。それとも外にあるのだろうか。
 それが外にある、と考えることはできない。常識から言えば、それは我々の身体の内にあり、我々の身体を動かすものであろう。

 一つの神経細胞を考えてみよう。それが我々の身体の中にあり、活動しているときには、それが精神を持つと言うこともできるだろう。一方で、それが死んでいて、活動していないときには、もはや精神を持つとは言えないだろう。
 したがって精神とは、生きるということそのものである。神経細胞の活動が精神である。

1.2

 ここで、次のことを区別することは重要である。
 我々は、細胞が何からできていて、どのように動きうるかを知っている。それは脂質とタンパク質と、核酸と金属イオンから成っており、それぞれの部分がどのように運動しうるか、ということを我々は知っている。
 しかし、それがどのように動きうるか、という可能性と、それが実際に動いている、ということとは、全く別の事柄である。

 可能性について記述するとき、我々は物質の性質について語っている。一方で、活動について語るとき、我々は物質について語っているのではない。
 運動そのものを記述することはできない。運動について語るとき、我々は運動の始源と終端を記述することで、運動の記述としなければならない。

1.3

 精神とは、運動の可能性としての、つまり物質としての神経細胞ではなく、神経細胞の現実の活動のことである。
 ある意味で、精神とは、身体の活動に与えられた名称にすぎない。それは身体と別のものではない。それを物質として見たとき、我々はそれを身体と呼び、一方で運動として見たときに、精神と呼ぶのである。それは同一のものの、二つの異なった名前であると言える。

1.4

 神経細胞の活動の始源は、その細胞の直前の状態と、周囲の細胞からの刺激であり、終端は、その細胞を含めた個体の生存の維持である。

 運動を記述するときには、常にその終端を指定しなければならない。そのように記述された運動については、研究によってその詳細を明らかにすることができる。しかし、なぜその終端に向かうのか、ということや、運動の背後にある原理を説明することはできない。科学の本分は現象の記述であり、理由の推測ではない。
 ニュートンは、引力法則の背後にある原理を説明しようとはしなかった。それでも、彼の重力理論は完全であった。我々もニュートンの態度に倣って、生命現象の記述で満足すべきである。生命の原理を明らかにしようと考えるべきではない。

1.5

 以上の議論から、次の重要な仮定が導かれる。すなわち、あらゆる精神現象は何らかの神経活動に対応し、あらゆる神経活動は何らかの精神現象に対応する、ということである。
 これは無意味なことではない。我々は脳の機能を探求する場合に、この対応関係を最大限に活用しなければならない。どんな精神現象とも関係を持たない神経活動は存在しないし、どんな神経活動とも関係を持たない精神現象も存在しない。我々は脳の機能を、内側と外側の両方面から切り開いてゆかねばならない。
 特に、それぞれの精神過程どうしの関係を探ることは、脳を知る上で有用であると思われる。特定の感情と感覚との、また記憶と意志との関係など、反省と推論によって明らかにできる事象は多いだろう。神経活動は無秩序に生じているわけではなく、必ずそのような精神過程を表現する形で発生しているはずである。この見方は神経系の活動を研究する際に、作業仮説を提供してくれるだろう。

 さて、人間精神を探求する場合、言語の役割について考えないわけにはゆかない。我々はまず、言語のはたらきについて考えねばならない。

2 意味ニューロン仮説

2.1

 言語能力の本質は、それが行動を起こす力を持つ、ということである。この事実を説明するためには、脳内にどのような機構を仮定すればよいだろうか。

 我々の脳には、言葉を理解する能力がある。それは、その言葉が表現する事実を理解することができるということと、その言葉が指示する行動をとることができるということ、この二つのことを意味している。
 この二つの過程を、言葉を命題として解釈する過程と、その命題に基づく推論によって行動が決定される過程として、説明できるのではないか。

 例えば、我々が用いるそれぞれの概念に対応する、一つのニューロンが存在すると仮定してみよう。そのニューロンは一つの単語に対応している。
「梅干し」と言われて、我々は梅干しの形や味を思い出すことができる。それは、「梅干し」という概念に対応するニューロンが、大脳皮質の感覚野に刺激を与え、梅干しの感覚刺激を再現するからではないだろうか。
 この回路は、双方向に機能するはずである。梅干しの形を見たときには、「梅干し」という単語と味を思い浮かべることができる。つまりこのニューロンは、複数の感覚野と、単語を表象するニューロンとの間に、双方向の結合を持つはずである。
 また、このニューロンのはたらきは、C・S・パースが仮説形成的推論(アブダクション)と呼んだ作用に他ならない。

2.2

 一方で、単語から感覚を想起しないこともある。その単語が文の中に現れたときなどである。このとき、概念に対応するニューロンは活性化しているが、感覚野への出力は抑制されていると考えることができる。この場合、脳の中では一種の推論過程が進行している、と考えられないだろうか。
 我々は話を聞き、文を読むことで、自分が何をすべきかを理解する。そのときに、文を構成するそれぞれの概念に対応するニューロンが活性化し、最終的な出力を決定するための推論が行われる。出力は行動として現れることもあるし、ニューロン間の結合の変化として現れることもあるだろう。

 以上のことから、概念に対応するニューロンの中には、運動野と接続を持つものも存在することが予想される。これらのニューロンは、動詞と対応関係を持つだろう。
 このようなニューロンのことを、以下では意味ニューロンと呼ぶことにする。

2.3

 具体例を挙げて考えてみよう。
 例えばあなたが、物置へ行って金槌を取ってこい、と言われたとしよう。まず必要なことは、物置へ行くことである。あなたが物置へ行く道を知っているならば、そこへ行くために、どのように運動を始めればよいかが分かるであろう。その言葉は、我々に行動を開始させる。

 このとき、脳内では何が起きているだろうか。まず、物置の概念に対応する意味ニューロンと、行くという動詞に対応する意味ニューロンが活動を始める。大脳の感覚野には、物置の感覚に対応する活動が再現され、運動野には、行くという動作に対応する活動が再現される。それらは結果として結びつき、物置へ行く、という動作が行われるだろう。
 おそらくこのときに活性化されるのは、高次の感覚野と運動野であろう。それらの領域で抽象的な観念が再現され、それが現実の感覚と比較されて、具体的な動作に結び付けられるのではないだろうか。

 もちろん、以上のことは単なる推測にすぎない。しかし、我々が言葉を理解するとき、脳内でこのような現象が起きていないとしたら、実際には何が起きているのだろうか。どうか考えてみて欲しい。

2.4

 言語による自分自身の行動の操作は、結果として上手くいっているだけだろう。なぜなら、言語に対応するはっきりとしたシステムが脳内に存在しているわけではない、と考えられるから。というのも、もしもそのようなシステムが存在しているとすれば、言語は生得的なものであるはずだから。
 逆に言えば、実際の言語活動で使われているシステムの大部分は、生得的なものだろう。意味ニューロンと推論の機能は、記憶に基づいて行動することのできる、すべての動物に備わっていると考えられる。人間が発明したのは、特定の意味ニューロンと、特定の音のつながりを結びつける機構だけであろう。

3 海馬の役割

 海馬は、全ての感覚野から投射を受けている。したがって、脳の異なる領域の活動を結びつけることができる器官は、海馬だけである。

 次のように仮定してみよう。複数の感覚野にまたがる刺激が与えられたときに、その刺激によって同時に活性化されたニューロン群は、海馬を通して連合を形成する。それは、一つの事物に対応する観念を形成する、ということである。
 海馬は、細胞集成体(cell assembly)を形成するきっかけを作る。D・O・ヘッブの理論に従えば、そのように海馬を通して形成された集成体において、同じ刺激が何度も繰り返されることにより、それぞれの刺激(あるものの形、動き、音、においなど)に対応する感覚野
相互の間に、直に促通が形成されることになる。そして、細胞集成体が十分に発達したならば、もはや海馬の細胞がそこから抜け落ちても、集成体は維持されるだろう。このようにして、あるものに対応する観念が形成される。
 この考え方に従えば、海馬の役割は触媒に似ていると言える。

4 犬における意味ニューロン

4.1

 意味ニューロンのはたらきを考察するために、脳のはたらきが人間よりも単純だと思われる動物、犬を例にとってみよう。

 犬はなぜ、待つことができるのだろうか。
 犬が、エサを前にして待つ、ということを覚えることができるのは、なぜだろうか。犬は明らかに、飼い主の「待て」という合図と、待つという動作を関連付けているのである。しかし同時に、エサという刺激が与えられることによって、摂食行動が始まるはずである。このとき、犬の中で何が起きているのだろうか。

 まず犬は、自分の行動を選択しなければならない。犬の体は一つしかないのだから、摂食という動作と、待つという動作を、同時に行うことはできない。したがって、エサという刺激と、待てという合図が同時に与えられたとき、どちらの動作を行うか、という選択が行われているはずである。
 図式的に表せば、「エサ」「摂食」「待て」という、刺激と動作に対応する三つのニューロンがある、と考えられる。その中で、「エサ」と「待て」のニューロンは、外界からの刺激に反応して活性化し、「摂食」のニューロンは、他のニューロンからの入力によって活性化する。

 はじめは、「エサ」から「摂食」へ、直接に興奮性の入力が行われているだろう。この接続は、ほとんど生得的といえる。
 犬が待つことを学習するとき、まず、「待て」という合図を認識するための学習が行われねばならない。次に、「待て」という合図と、待つという動作が、結び付けられねばならない。これは、「待て」ニューロンから「摂食」ニューロンへの、抑制性の入力として表現できるだろう。

4.2

 我々はここで、犬の中にあらかじめ「待て」に対応する意味ニューロンが存在していた、と仮定せざるを得ない。それは野生では、別の目的のために働いていたものだったろう。それがヒトと生活する上で転用されたのだ、と見ることができる。
 私がこのように考えるのは、なぜそのような接続が可能であるのか、ということが理解しがたいからである。脳を構成するあらゆるニューロンが、他の全てのニューロンと接続しうる、と考えることはできない。もしもそうであったならば、脳は正常に機能できないだろう。

 あるニューロンが、他のどのニューロンと接続しうるか、ということはあらかじめ決められている。そして、その範囲内で学習が行われるのだろう。
 したがって、犬が理解できる物事の範囲は決まっている。犬は「待て」という合図を理解できる。それは犬の中に、「待て」に対応する意味ニューロンがあらかじめ存在するからである。

 では、学習可能な観念と、学習不可能な観念の違いは何か。この問題は、人間の知性について考察するときに、避けられない謎として浮かび上がってくる。おそらく、我々人間の認識能力にも、犬と同じような限界が存在するのだろう。
 この話題は、第 7 節以下で再び取り上げるつもりである。

4.3

 次に、犬に毒入りのエサを与えることを考えてみよう。毒入りのエサには、明らかに見分けられる特徴があり(例えば青色)、食べると一時的にマヒ状態に陥ってしまうとしよう。犬は一度食べただけで、それが毒入りであることを学習するだろう。
 その後、毒入りのエサを再び提示されたとき、犬は次のように判断するはずである。
「青色のエサは毒入りである。しかるに、このエサは青色である。ゆえに、これを食べてはならない」
 そして、犬はそのエサを避けるだろう。

 この事例から分かることは、三段論法には神経的な基盤が存在する、ということである。
 犬の神経系は、青色の毒入りエサを食べることによって、「青色のエサは毒入りである」ということを帰納的に推論し、この観念を学習した。そして、二度目に青色のエサを見たときに、「それを食べてはならない」という判断を演繹したのである。

 以上の議論をまとめると、帰納は学習に関係し、演繹は行動に関係し、アブダクションは認識に関係している、と言うことができる(三段論法については「AIと哲学」参照)。
 しかし、具体的な場面においては、これら三つの要素を常に明確に区別できるとは限らない。実際の神経活動では、これらの要素が複雑に絡み合っていると考えられる。
 この学習・推論の過程がどのように実現されているか、ということは明らかではない。しかし、もしも意味ニューロンが存在するならば、これを可能にする何らかの機構を考えることは不可能ではないだろう。

 ここで、帰納的推論によって得られる命題のセットを、信念、あるいは知識と呼ぶことにしよう。大雑把に言って、個体の行動に直接かかわる命題を信念、直接には関わらない命題を知識とする。信念の中には、生得的なものも含まれるだろう。

5 夢と意味ニューロン

5.1

 次に、夢について考察しよう。我々の仮説によって、この現象を説明できるだろうか。そもそも、夢とは何であろうか。
 概略、次のように考えることができる。睡眠中に、我々は自分の信念の体系をチェックし、矛盾がないことを確かめたり、矛盾がある場合は、信念の調整を行ったりしている。そのようにして、睡眠中に記憶の強化や、必要な信念の付け足しが行われているのだろう。

 ところで、もしも、睡眠中の夢が、記憶の修正の結果であると考えるならば、おかしな事態が生じるように思われる。我々は夢の内容を思い出すことができるが、では、どのようにして、記憶が修正される過程が記憶されるのだろうか。ある記憶に対応する神経回路が変化する過程を記録する、別の神経回路が存在するのだろうか。
 そんなことは、ありそうにないと思われる。我々はどうして、夢を思い出すことができるのか。

 これに対して哲学者の大森荘蔵は、夢は、それを思い出すときに作られる、と言った。私もその考えに賛成である。
 夢の発生に関する私の考えは、次のようなものである。我々が寝ている間に、信念の体系が修正を受ける。目が覚めてから、信念の一部が変更を受けていることに気付き、違和感を抱く。この違和感が夢という形で体験される。我々は、記憶が修正される過程を直接記憶しているわけではなく、修正後の状態に漠然としたよそよそしさを感じ、それを夢という形で表現するのではないだろうか。
 この場合でも、なぜ記憶の修正に気づくことができるのか、という問題は残る。勘の鋭い人は気づき、鈍い人は気づかないのかもしれない。夢をよく覚えている人と、全く覚えていない人がいるのは、そのためだろう。

 また、この考え方によれば、修正された記憶と夢の内容は異なっている。それらの関係は鍵と鍵穴に似ていると言える。
 したがって、夢の話から睡眠中に起きた現象を知るためには、特別な技術が必要とされるだろう。それが、夢判断が必要とされる理由ではないだろうか。もちろん、それに意味があるかどうかは、また別の問題である。

5.2

 信念体系のチェックを、睡眠中に行わなければならない理由は明らかである。例えば、起きている間に「黄色いエサは食べてもよい」という信念の結果を判定しようと思ったら、実際に摂食行動が起きてしまうだろう。安全に信念体系の調整を行うためには、身体を動かせない状態に置くことが望ましい。

 また、複数の矛盾した信念がある場合(例えば「青いエサは食べてはいけない」と「どんな色のエサでも食べてよい」)は、それらの信念が引き起こす結果をそれぞれ判断し、必要な修正を行うのだろう。これは、どのように実現されるだろうか。
 いま、青いエサの感覚刺激が再現され、目の前にエサが現われたように感じたとしよう。古い信念(「どんな色のエサでも食べてよい」)に従って行動した結果、新しい信念(「青いエサは食べてはいけない」)に従って、悲劇的な結果がもたらされる。悪い結果が起きるのを避けるために、古い信念は、何らかの形で修正を受けるだろう。
 このとき、新しい信念は負の情動と関連付けられているため、本物の刺激が目の前に無くても、学習が可能になるのではないだろうか。

 このような信念の修正によって、次に青いエサが目の前に現れたときに、適切な反応ができるように、神経系が調節されると考えられる。これが、睡眠中に行われる学習の役割であろう。
 別の角度から見れば、これは、悪夢を見ることの説明にもなっているだろう。しかし、記憶の修正がどのように記憶されるのか、という問題と合わせて考えると、まだ解決になっているとは言えない。

6 知性

6.1

 ここまで、人間と犬の類似点に注目して議論を進めてきた。しかし、両者の間には大きな違いがある、ということも事実である。人間と犬の本質的な違いは何だろうか。

 それは、知性を持っているかどうか、ということである。そして知性とは、自分が今抱いている観念が、偽であるかもしれない、と疑うことができる、ということである。言語の最も本質的な特徴は、偽なる命題を表現できるということであろう。
 ある観念が偽でありうるものであり、かつ、この観念が偽であるかどうかが分からないのだとするならば、我々はその観念が、偽であるか真であるかを確かめなければならない。そのために更なる経験が必要となったり、あるいは、真偽を判断するために推論を行う必要が生じるだろう。それが知性である。

 ある観念が偽でありうるという観念を理解することで、知性が生まれる。では、この仕組みに器質的な基盤は存在するだろうか。
 おそらく、ないだろう。というのも、我々は、あらゆる観念が偽でありうる、と考えるわけではないからである。偽ではありえず、したがって、その観念の命じるところが直接に行動として現われるような観念が、信念である。もしも知性に器質的な基盤が存在するならば、我々はあらゆる観念を疑わざるを得ないだろう。ゆえに、信念は存在しえないだろう。
 しかし、それは事実に反する。実際に我々は信念を持ち、それに基づいて行動している。したがって、知性は器質的な性質ではありえない。知性は離在するのである。

6.2

 さて、ある観念が偽であるかもしれないとき、我々は何をすべきだろうか。我々の行動を決定する信念が存在しないとき、そこに選択の自由が生まれる。ゆえに、自由とは、自分が何をなすべきかを知らない、ということである。つまり、自由とは無知のことである。

 いったい、偽なる命題を偽なるものとして理解するとは、どういうことなのだろうか。そのとき、我々の中で何が起きているのだろうか。誰も、それがどういうことであるかを知らないのではないだろうか。

7 意味ニューロン仮説の定式化

 この節と次の第 8 節では、意味ニューロン仮説の定式化を行う。いくつかの例を通してこの仮説を具体化し、検証しやすい形式にまとめたいと思う。

7.1

 あなたは、事物の認識に関係する神経活動を研究したい、と考えているとしよう。あなたはまず、どのような事物の認識を研究対象にするかを、決めなければならない。
 例えば、視覚認識を選んだとしよう。あなたは、人間や猿が、蛇と蛙をどのように視覚的に識別しているか、ということなどを、様々な手法を使って調べ上げねばならない。あなたはおそらく、被験者に蛇の写真を見せながら、彼の脳波をとったり、脳の磁気断面図を撮影したりするだろう。

 あなたは様々な実験を終え、今や、それを論文にまとめようとしている。そこで、あなたはふと考える。
 私は今、論文の中で蛇や蛙という言葉を使っているが、なぜ私は、これらの言葉を使えるのだろうか。さらに振り返れば、私は実験中に、被験者や実験動物に蛇や蛙の写真を見せていた。しかし、どうして私は、それらを識別することができたのだろうか。
 それは、私の脳の中に、蛇や蛙を識別する神経回路があるからに他ならない。では、誰がはじめに蛇や蛙を定義したのだろうか。

 ここには、確かに問題がある。それは、言葉とその意味との間にどのような関係があるのか、という問題であり、また、それらと脳との間にどのような関係があるか、という問題である。我々はこの問題に、我々のやり方で迫ってゆかねばならない。

7.2

 まず、明らかにしておかねばならないことがある。それは、言葉には確かに意味がある、ということである。というのも、ある人々は、言葉はコミュニケーションのための社会的な取り決めにすぎず、言葉と事物の間に対応関係は存在しない、と主張しているからである。
 しかし、そもそも言葉が意味を持たなければ、コミュニケーションが成立しないことは明らかである。同じ言葉が同じ物を意味しているからこそ、相手の話を理解することが可能になるのではないだろうか。

 次に確認すべきことは、我々は、それぞれの言葉の意味を明瞭に区別できる、ということである。
 我々は個々の事物について、例えば、それが青いものであるか、黒いものであるかということなどを、様々な理由から間違うことがありうる。しかし、青が何であるかということと、黒が何であるかということを間違える、ということはありえない。それぞれの概念を、我々は常に区別することができるのである。

7.3

 ここで我々は、次の原則を思い出す必要がある。すべての精神現象は神経活動と対応を持つ、という原則である。

 そこで、異なる概念の認識が、互いに区別されねばならないのだとすると、それぞれの概念の認識に対応する神経活動も、互いに区別されねばならない、ということになるだろう。したがって、次のように主張することができる。
 ある概念の認識に対応する神経活動の、任意の時刻における切断面は、他のすべての概念の認識に対応する神経活動の、すべての時刻における切断面と、互いに異なっていなければならない。
 というのも、もしもそうでなければ、因果律に従って、二つの神経活動は完全に同一のものであることになるだろう。そのため、二つの認識も同一のものになってしまい、結局、我々は二つの概念を区別できなくなってしまうであろう。
 したがって、それぞれに区別される概念の認識に対応する神経活動は、どの時刻においても互いに異なっていなければならない。

 これは、ある概念と、その概念の認識に対応する神経活動との間に、写像の関係が成立しているということである。我々はこのことを、脳が外界の事物を写し取っている、と表現することもできるだろう。
 それぞれの概念の認識に対応する神経活動は、理想的には、ある時刻における単一のニューロンの活動によって区別されるだろう。それを意味ニューロンと呼ぼう。もちろん、それらが常に単一のニューロンによって区別されるとは限らない。しかし、理論の扱いやすさと単純さのために、ここではそのような仮定を設けることにしたい。
 また、それぞれの意味に対応した神経活動全体のことを、意味単位と呼ぶことにする。

 ここで、力学におけるリウヴィルの定理を思い出すならば、議論が理解しやすくなるだろう。

7.4

 認識は、個物から概念を抽出する作用である、と言うことができる。
 しかしこのとき、認識作用が概念を作り出している、と言うことはできない。というのも、概念のレパートリーが予め知られているのでなければ、人々の間での意思の疎通は、不可能になってしまうから。

 したがって我々はむしろ、次のように言わねばならない。我々の認識作用は、個物の性質を写し取っているのだ、と。そして、それを概念として表現しているのである。それぞれの概念、つまり事物の性質は、事物の中に存在している。
 この場合、我々の持つ概念の数が限られているのは、我々が知りうる事物の数が限られているからだ、と言えるだろう。あるいは、概念の数が限られているから、我々が知っている事物の数にも、限りがあるのかもしれない。どちらの解釈も可能であろう。
 ある意味で、言葉は存在そのものである。

7.5

 さて、ここで我々は、次の課題に取り組まねばならない。
 具体的な事物の認識に関しては、上の考え方でよいかもしれない。しかし、抽象的な概念や感情など、心の状態を表現する概念についても、同じ考え方が当てはまるだろうか。

 感情については、上と同じ議論が当てはまることは明らかだと思われる。
 我々は、怒りが何であるかということと、恐怖が何であるかということを取り違えることはない。しかし、ある特定の感情について、それが怒りであったか、恐怖であったかということを、はっきりと判断できないということはありうる。
 そしてこのことは、我々には感情を認識する能力が存在し、その限りにおいて、認識の対象となる感情が実在するものである、ということを意味している。だからこそ、自分の感情を判断するのが難しい、という経験もありうるのである。
 以上のことから、それが何であるか、ということがはっきりと他から区別できるような抽象的な概念についても、さしあたっては、その実在性を主張できると考えてよいだろう。

7.6

 しかしやはり、次の問題には注意しなければならない。それは、我々は実在しないものに対応する観念を持つことができる、ということである。
 例えば我々は、他からはっきりと区別できる観念として、ユニコーンという観念を持っている。おそらく、ユニコーンという観念に対応する細胞集成体も存在するだろう。しかしそのことは、必ずしもユニコーンの実在を意味するわけではない。脳内における表現としては、蛙とユニコーンは本質的な違いを持たないかもしれない。しかし、我々はそれら二つの観念の間に、天と地ほどの開きがあることを知っている。

 したがって、何らかの抽象的な観念や、心理的な対象を神経の活動として定義する試みに対しては、慎重になった方がよいと思われる。
 私が言いたいのは、意識のことである。たとえ、意識という観念に対応する神経活動が存在したとしても、そのことは、その神経活動が指示する対象が実在することを意味するわけではない。脳をいくら調べても、蛙が実在することを知ることもできないし、ユニコーンが実在しないことを知ることもできない。意識を脳の中に探そうとする試みは、無意味である。我々はまず、我々が探している対象が何であるのか、ということをよく知る必要がある。

 それでもあなたが意識の存在にこだわるならば、私自身は意識を知覚できないと主張しよう。意識が主観的にのみ知覚されうるものならば、私の主張を反駁する手段はあなたにはないだろう。このようにして、意識は否定される。

7.7

 おそらくは、この問題に関連して、善悪の観念が実在するかどうか、つまり、それが事物の客観的な性質として認められるかどうか、ということを議論するべきかもしれない。
 善悪の行いは実在し、その結果も実在する。少なくとも私はそう信じているつもりだが、そのことが何を意味するのかは、必ずしも明らかではない。この問題については、より詳しい考察が必要であろう。
 抽象的な観念については、ここで議論を終える。

8 普遍的意味単位仮説

8.1

 さて、一般的に言って、ニューロンの単純な活動と、その学習とを区別することは常に重要である。我々が今まで考察してきたことは、成熟した一個人の神経系を対象にしていた、と言ってもよいだろう。我々はまだ、学習の問題を取り扱っていない。
 先ほど我々は、ある観念の認識に対応する神経活動の全体を、意味単位と呼ぶことに決めた。しかしこれは、一個人の脳内に存在すると仮定されたものでしかない。我々は、あらゆる個人の意味単位を包括する、普遍的な意味単位について考察しなければならない。
 この考察は、異なる個人の間で語の意味が共有され、また、それぞれの語が外界の事物と対応関係を持つ、ということを説明することを目的としている。

 考察を始めるにあたって、基本的な前提を確認しておきたい。それは、我々が仮定するのは、自然的な因果関係だけである、ということである。語と事物の間に、超自然的な関係を仮定することは許されない。

8.2

 ここで我々は、意味単位が実際にどのように機能しているか、ということを考えてみなければならない。
 それぞれの意味単位が、因果律によって同定されることは既に述べた。この因果律を、まずは逆向きに辿ってみたい。

 例えば、あなたはいま、鶏を捕まえようとしているとしよう。
 あなたが鶏を見るとき、あなたの脳の中では、鶏の意味単位が活性化し、それによって、鶏の認識が生じる。
 あなたの目に入った光は、鶏の体表で反射した光であり、その光は太陽から来た光であった。また、鶏が動くにつれて、新しい光が次々とあなたの目に入ってくる。鶏の肺と喉の筋肉が動き、空気を振動させ、その振動があなたの耳に届く。
 その鶏の活動は、鶏がそれまでに摂取し、消化した食糧によって生み出されている。また同時に、そのとき鶏が置かれている状況のために、鶏の中に生じた衝動によって、生み出されている。
 そして、これら諸々の事象についても、更にその原因を辿ってゆくことができる。また、鶏の活動を伝えることを可能にする、光や空気についても、同様に原因を辿ることができるはずである。

 さて、今度は因果を順に辿ってみよう。
 あなたは、鶏を捕まえようとしていた。鶏を認識したことで、あなたは、あなたの信念に基づき、鶏を捕まえる、という動作を始めることになる。鶏を捕まえたあなたは、そのことを言葉を使って仲間に報告する。やがてあなたは、その鶏を食べるだろう。そして、それらの行動がさらに、他の諸々の事象を結果するのである。

 もしも、太陽の光がなかったならば、あなたは鶏を見ることができなかっただろう。ゆえに、光は見ることの原因である。
 もしも、鶏を見ることがなかったならば、それを認識することはできなかっただろう。ゆえに、見ることは認識することの原因である。
 もしも、鶏を認識することがなかったならば、それを捕まえることはできなかっただろう。ゆえに、認識することは捕まえることの原因である。
 また、もしも捕まえることがなかったならば、食べることもなかっただろう、等々。

 我々はここに、因果の流れを見てとることができる。原因が結果を生じ、その結果がまた原因となり、次の結果を生じさせる。

8.3

 二人の人間 A、B が、同一の観念 I に対応する意味単位を持っているとき、それぞれの人間の意味単位は、それぞれの因果の流れの中で、活動するはずである。A の意味単位には、A という因果の流れが付随し、B の意味単位には、B という因果の流れが付随している。A も B も、同一の意味を表示している。
 ここで、次のような仮定を置いてみよう。A も B もともに、より大きな因果の流れ M の一部分である、と。そしてこの M は、観念 I に対応するあらゆる人間の意味単位を、その部分として含むものであると考えてみよう。

 重要なのは次の条件である。いま、異なる観念 I、J に対応する因果の流れを M、N としよう。このとき M と N は、因果的な関係を持ってはならない。
 というのも、もしもそうであるならば、M と N は、関係を持ち始めた時点以降において、互いに混ざり合ってしまうだろうから。そしてそのことは、我々が観念 I と J とを、明瞭に区別できなくなってしまうことを意味する。しかしそれは、我々が I と J を常に明瞭に区別できる、という仮定に反する。
 したがって、M と N は、因果的な関係を持たないはずである。M に属する要素と N に属する要素は、完全に分離されていなければならない。

8.4

 しかし、次のような場合もあるだろう。
 例えばカエルとアマガエルのように、互いに包含関係にある観念である。これらの観念に付随する因果流は、一方が他方を包み込むような形になっていると思われる。
 このとき、観念を定義しなおして、互いに排他的な二つの観念を定義できると仮定しよう。もしもこれが可能ならば、新しく定義された二つの観念に付随する因果流は、互いに関係を持たないようになっているだろう。

 そのようにして、新しく定義しなおした観念の集合を IS とし、それに付随する因果の流れの集合を MS としよう。
 もしも IS が、我々が認識しうる全ての観念を含んでいるならば、MS は宇宙の全てである。なぜなら宇宙とは、我々に認識できるもの全ての集合だから。
 もしもそうであるなら、我々によって認識されないものは宇宙には含まれないことになる。また、我々の仮定によれば、そのようなものは我々の宇宙とは因果関係を持たないのだから、別の宇宙を構成していると言ってもよいだろう。したがって、我々の認識は宇宙のすべてを覆っていると言える。
 ここで、MS のそれぞれの要素を、普遍的意味単位と呼ぶことにしよう。

8.5

 この仮説の興味深い点は、一個人の意味単位を特定するだけで、普遍的意味単位を特定するには十分だということである。それぞれの人間の意味単位は、一つ一つが宇宙の構造を反映していると言えるのである。
 おそらく、意味単位が増減したり、新たに作られたりすることはありうるだろう。しかし、我々がそのことに気付くかどうかは分からない。気付かないと考えたほうが合理的であろう。
 学習の問題について、いま言えることは、個々の観念の学習の過程も、それぞれの普遍的意味単位に含まれているはずだ、ということだけである。

8.6

 ここで、次のような疑問を抱く人がいるかもしれない。その仮説は熱力学の第二法則と矛盾しないのか、あるいは、エルゴード仮説とどのような関係があるのか、と。

 次の点に注意してもらいたい。それは、どんな科学的な理論も、言葉によって記述されねばならない、ということである。もしもそれぞれの語が意味を持たなければ、すべての科学理論が意味をなさなくなるだろう。したがって意味単位の仮説は、あらゆる科学理論に先行するものである。
 極端な言い方をすれば、意味単位の仮説と相違するような科学理論は、放棄されねばならない。しかし幸いなことに、エルゴード仮説は、意味単位の仮説と矛盾しないように思われる。

8.7

 本当の問題は次の点にある。
 たしかに、我々の認識は宇宙全体を含んでいるが、実際にはそれ以上のものをも含んでいる。つまり、我々は、存在しないものに対応する、数多くの観念を持っているのである。我々が抱えている問題は、知識の欠如ではなく、反対に、知識が多すぎるということである。

 しかし、ある意味で、「知る」という言葉がどういう意味であるかを知ることができると考えるのは、ばかげているように思われる。「知る」という言葉の意味を知らずに、どうして「知る」という言葉を使えるだろうか。
 結局、これは単なる仮説にすぎない。我々が探求すべきは、本当の意味での知性とは何であるか、という問いである。

8.8

 さて、ここまでの議論に関連して、いくつかの注を述べておかねばならない。これは主に物理学に関する内容になるので、興味のない読者は以下を飛ばして、第 9 節に進んでいただきたい。

 一つ目は、量子力学において因果律は満たされているか、という問題についてである。もしも因果律が破れているのだとすれば、前節からの議論は妥当性を失ってしまうことになる。

 しかし私は、以下の理由から、満たすと思う。
 量子力学においても、エネルギー保存則と運動量保存則は、厳密に成り立っている。そしてこのことは、運動の第三法則、つまり作用反作用の法則が、量子力学においても成り立っているということを意味している。というのも、もしも作用反作用の法則が満たされていないのであれば、エネルギーと運動量が必ずしも保存しないことは明らかであるから。
 作用反作用の法則は、いかなる力も原因無しには働かない、ということを意味している。つまり、あらゆる力に原因があることを保証しているのである。したがって、量子力学においても、因果律が成り立っていることは明らかである。

 そもそも、ある力学体系が決定論的であるかどうかということと、それが因果律を満たすかどうかということは、全く別の問題である。量子力学は非決定論的だが、因果律は満たしていると言えるだろう。
 決定論という考え方は、絶対的な知性の存在を仮定することから生じると思われる。しかし、その仮定は妥当ではない。そもそも、我々の知性そのものが、因果律によって生み出されているのである。因果律は常に、知性よりも先にある。それなのに、決定論という考え方は、知性を因果律よりも上位に置こうとする。その態度は不合理と言わざるを得ない。

8.9

 二つ目は、偶然と必然についてである。この問題は、決定論や因果律と深く関係している。

 例えば、ある朝あなたは、車のタイヤに釘が刺さり、パンクしていることに気付いたとしよう。そしてそのせいで、会社に遅刻してしまったとしよう。このときあなたは、「たまたま」車がパンクしていたせいで遅刻してしまった、と言うことができることに注意してほしい。
 しかしタイヤにとっては、釘が刺さればパンクするのは必然である。一方で、会社に行くというあなたの本性、つまりあなたの目的からすれば、パンクは偶然である。
 言い換えれば、パンクという事象は、タイヤそのものの本性からいえば必然であるが、その所有者であるあなたの目的からいえば偶然である、ということになる。

 偶然と必然は、ある意味では見方の違いにすぎない。同じ出来事が、あるものの本性から見れば必然であり、別のものの本性から見れば偶然である、ということがありうるのである。適切な見方をとれば、どんな出来事でも、必然的に生じたと言うことができるはずである。


 我々が事物の偶然性を信じるようになるのは、自然の中にゆらぎを見出した時であろう。溶液中に浮かぶ微粒子が、ランダムな運動、いわゆるブラウン運動を行うことを知れば、あなたは、自然の中に偶然性が存在することを信じる気になるだろう。

 しかし、アインシュタインが、原子の存在を仮定することによってブラウン運動を説明したのは、自然から偶然性を排除するためであった。
 溶液中の原子の数は非常に多いので、全体として見れば均一であっても、個々の原子を見れば乱雑さを持つようになる。個々の原子は厳密に運動法則に従い、まさにそのことによって、微小な乱雑さが生まれるのである。
 偶然を必然から説明すること、それが原子論の神髄である。もちろん原子の概念には、現在においてもなお、改善の余地が残されてはいる。しかし、自然の因果性を認める立場からすれば、ゆらぎの原因としての原子を否定することは困難である。

9 知性と道徳

 この節では、人間の知性について考察を行う。第 6 節でも簡単に知性の定義を行ったが、ここでは別の観点から検討を加える。
 またその際に、道徳について考察を行うのは避けられないことである。人間の知性と道徳性とは、不可分のものであるから。

9.1

 知性とは何だろうか。
 ストア派のエピクテートスによれば、知性とは、善悪を判断するものである。また、知性自身は善なるものであるから、それは自分自身をも判断の対象にしうるものでなければならないという。つまり知性とは、自己完結的であり、一貫性を持つものでなければならない、ということであろう。
 私は、エピクテートスによって語られたこの性質を手掛かりにして、知性に関する考察を進めるつもりである。

9.2

 ここで、次の問題について考えてみたいと思う。果たして、進化論は知性を説明できるだろうか。
 A・R・ウォレスはかつて、進化論は人間知性を説明できないだろう、と考えた。この点に関して、私も彼に賛成する。なぜなら進化論は、知性の自己完結性を説明できないと思われるからである。
 このことを直接証明することはできないが、傍証を提示することはできる。それは、進化論で説明されることが期待されるが、実際には説明不可能と思われる問題を提出することである。

 その問題とは、なぜ、我々は進化論を発明することができたのか、というものである。進化論を発明したのは人間の知性であるが、その知性自身も進化の過程で生じた、と進化論は主張しなければならない。
 しかし、一体、進化論を発明することが適応的だから、我々は進化論を発明することができるように進化したのだろうか。
 進化論を発明するために必要な諸能力の進化に際して、どのような淘汰圧が働いたと考えるべきだろうか。
 そもそも、種を認識する能力を抜きにしては、進化論は意味を持たない。では、その能力はどのように進化したのか。

 進化論は、これらの問いに合理的な答えを与えることはできないだろう。なぜならそれは、自身によって説明されるべき性質を、自身の前提にしているからである。
 以上が、進化論によっては知性を説明できない、ということを示す間接的な証拠である。知性について理解するためには、全く別のアプローチが必要となるだろう。

9.3

 そもそも、知性とは何であるのだろうか。
 私は、次のような定義を提案する。知性とは、真理に基づいて行動する能力である、と。
 こう定義する理由は、ある人が、どのような場合に知性ある人だと言われるか、ということを考えてみれば分かるだろう。知性ある人とは、道理にかなった行いができる人のことである。

 しかし、この定義は言い換えにすぎない。一体、真理や道理とは何なのだろうか。
 私自身は、真理とは道徳のことであると考えている。しかしここでもまた、直接的な証拠を提示することはできない。ただ間接的な論拠を提示してゆくことで、そのことを証明するしかないのである。
 以下の議論は全く、この目的のために行われるだろう。

9.4

 まず、道徳の起源に関して広く行われている議論、我々の道徳性は我々自身の生物学的な特性に由来する、という議論について考えてみよう。

 はじめに私の考えを述べよう。道徳の生物学的な起源を説明しようとする、いかなる試みも誤りである。なぜなら、人間は道徳的ではないから。そのような試みをする人々は、存在しないものの証拠を見つけようとしているのである。
 もちろん、道徳の端緒が生得的なものであることは認めねばならない。道徳的な出来事に対する好悪の感情は幼児にも見られ、それが他者からの学習によって獲得されたものでないことは、よく知られている。
 しかし、だからといって、道徳が生得的なものであるとは言えない。我々はむしろ、そのような感情によって道徳の存在を知り、それによって道徳を獲得するように努力を促されるのである。

 たとえば、敵対する関係にある国々においては、どんなに善良な人間であっても、敵国の首領の死を願うだろう。また、人間の道徳的な性質が生得的なものであったならば、戦争は決して生じなかったであろう。
 たとえば、自分の利益のために他人を殺すことが正しいかどうか、というような非常に単純な事柄については、我々は疑いを持たずに判断を下すことができる。しかし、トロッコ問題のように状況が複雑なものになってくると、どのような判断が道徳的であるか、ということをはっきりと決めることが難しくなってしまう。

 もしも我々が、道徳について完全な知識を持っていたならば、そのようなことはありえなかっただろう。どんなに些細な違いであっても我々を悩ますことはなく、疑いを持たずに判断ができたはずである。
 複雑な状況において、道徳的な判断を行うことにためらいを感じるのは、我々が道徳について十分な知識を持っているわけではないからであろう。そしてもしも、道徳に関する我々の行動が生得的であったならば、そのようなことはありえなかったであろう。

 以上のことから、道徳的な行動や判断は生得的なものではない、ということは明らかである。
 我々自身が道徳的ではなく、道徳について十分に知らない。したがって我々は、道徳の起源を知ることはできないだろう。我々はそのような試みをする前にまず、道徳とは何であるか、ということをはっきりと知らねばならない。

9.5

 我々が道徳を知るのは、古人の言葉によってである。人間が一人で生きていたならば、けっしてそのことに気付かなかっただろう。

 自分自身の善行がどこに由来しているか、ということを考えてみるとよい。
 それは、自分の中から出てきたものではない。他者の言葉によるものである。道徳を明らかにする言葉に接することで、我々の中に分別が芽生える。そして、理性を働かせて物事を推し量ることで、道徳の価値を知り、それを実行することができるようになるのである。
 道徳とは第一に善い行いであり、善い行いの原因は自分の中にはない。

9.6

 道徳は、人間の行為として示されるものである。しかし人間の行動は、その人の持つ信念のセットによって決められている。では、人は、自分のもつ信念をどのように決めているのだろうか。
 基本的には、自らの経験によると言えるだろう。人は過去の経験から学び、自分の行動と性格を形づくってゆく。しかし、それだけではない。人は言葉によっても学ぶことができる。

 けれども、言葉によって知ることができる知識と、その人の信念との間には、隔たりがあると思われる。信念とは、自らの行動に直接結びつく知識であり、知識とは、行動に直接は結びつかない信念である。どのようなときに、知識は信念に変わるだろうか。
 それは、その知識に実行するだけの価値がある、と分かったときであろう。ある知識が利益をもたらすと分かったときに、その知識は信念に変わる。おそらくは、数多くの経験をとおして、徐々に変わってゆくのだと思われる。

 重要なことは、我々が言葉によって伝えることができるのは知識だけであり、その知識の持つ価値までをも完全に伝えることはできない、ということである。
 いにしえの人々は確かに、道徳的信念には最も大きな価値があり、それを実践する人に最大の利益をもたらす、ということを悟っていた。しかし、そのこと自体を伝えることはできなかった。人から伝えられた信念の価値は、自分の経験によって確かめてみるしかないのだから。だからこそ我々は、自分自身の人生を価値あるものにするために、彼らの言葉を信じなければならない。

 他人の言葉を疑うことは簡単である。しかし、どんな言葉をも信じないというのであれば、何のために言葉が存在するのか。我々は、自分の判断によって一度信じると決めた言葉ならば、あくまでもその正しさを信じ続けなければならない。それができない人間は、理性を持っているとは言えないのである。

9.7

 知性とは真理であり、真理とは道徳である。
 信念の体系が真理にかない、真理に則って行動できるときに、その人は知性を持つと言われる。では、信念の体系を道徳に基づかせるためには、何をすればよいのだろうか。

 それは、訓練と注意力によるしかない。我々の行動は、自分自身の信念によって決められている。どのような状況で、どのように行動するかということは、信念によって決定される。
 しかし同時に、我々は新しい信念を学ぶことができる。それゆえに、道徳的命題を自分の信念とするために、自分自身を訓練せねばならない。
 我々は、あらゆる物事を道徳的命題と関連付けるように、努力しなければならない。そして、自分がどんなことをしようとするときでも、それが道徳に反しないかどうかを、自然に判断できるようにしなければならない。
 重要なのは、どんなときでも、ということである。我々は、あらゆる判断が道徳をその中に含むように、自分自身に学習させなければならないのである。

 このようにして我々は、道徳を実践することができるようになるだろう。そしてこれは、道徳の持つ本当の価値を信じている場合にのみ、可能となることである。
 では、道徳の価値とは何か。それはどこにあるのか。それを明らかにせねばならない。

9.8

 道徳とは、暴力の否定である。
 ゆえに、道徳を守るために、暴力に訴えることは許されない。もしも、暴力によって道徳を守ろうとするならば、その行為自体によって、道徳が破壊されることになるからである。これが、他のあらゆる原理から、道徳が区別される理由である。
 例えば、欲求の充足を原理とするならば、暴力は否定されないだろう。しかし、暴力が否定されなければ、結局はあなた自身が、暴力のために滅ぼされてしまうかもしれない。そうなったら、欲求の充足は不可能である。欲求の充足という原理の中には、はじめから、それ自身を滅ぼす可能性が含まれている。
 愛や絆を原理とする場合にも、同様のことが言える。

 一方で、道徳を原理とするならば、はじめから暴力の可能性は排除されているのである。道徳を尊ぶものの間では、暴力は生まれない。
 道徳は自分自身を否定しない。それが道徳の特徴である。

9.9

 カントは、「人間愛からの虚言」という論文で、次のような問題を論じている。
 人殺しがあなたの友人を追いかけていて、あなたは彼をかくまっているとしよう。そして、彼の居場所を、人殺しに尋ねられたとしよう。もしもあなたが、その人はここにはいない、と嘘をついたならば、彼を助けられるかもしれない。友人を助けるために、あなたは嘘をついてもよいだろうか。

 ここで問題とされているのは、嘘をつく罪の重さである。カント自身は、いかなる場合にも嘘をついてはならない、と答えている。たとえ他人の命を救うためであっても、である。もちろん、彼は原則について語っているのであって、一切の例外を認めない、と言いたいわけではないのかもしれない。
 しかし、次のように考えることはやはり自然であると思われる。この場合に問題となっているのは、果たして、嘘をつく罪と、他人の命を危険にさらす罪だけだろうか、と。

 このことは、次のように考えてみるとはっきりするだろう。
 もしも、あなたが嘘をついていることが、殺人者にばれてしまったとしたら、あなたはどんな目に合うだろうか。あなたがかくまっている人は、あなたが危険を冒してまで、助ける価値のある人だろうか。たとえあなたが真実を告げたとしても、誰もあなたを責めはしないのではないだろうか。
 ここで実際に天秤にかけられているのは、自分自身の身を守る徳と、他人の身を守る徳であるように思われる。自分を守る徳は誰でも持ち合わせているが、他人を守る徳を実践することは、ずっと難しい。ここに本当の問題があるのではないだろうか。

9.10

 『論語』には、次のような箇所がある(子路第十三)。
 ある人が言うには、彼の国には正直者がいて、父が羊をねこばばしたときに、息子がそれを役人に知らせたのだという。それに対して孔子が言うには、父は子のために隠し、子は父のために隠す。それが本当の正直者である、と。

 ここで孔子が問題にしている徳は、他人の身を守る徳である。
 孔子にとっては、これは政治の問題でもあった。彼にとって政治の目的とは、人々に徳を与えることである。個々の人間が十分に徳を身につけたときに、はじめて社会の秩序が実現され、その結果、個人の幸福も実現されるのである。自分の身を守るだけでなく、他人の身を守る徳を人民に教え育むこと、それが孔子の政治だった。
 法は、人の行いを縛ることはできるが、人を育てることはできない。まず個人の徳が確立されなければ、社会の秩序はありえないのである。それに、そもそも自分が法に従うべきかどうか、ということを自分で判断できる人間でなければ、本当に法に従っているとは言えないだろう。

9.11

 現代の目から見ると奇妙に見える行いであっても、よく考えると理にかなっていると思われる事柄もある。特に、徳に関しては、その本質を尋ねることは難しいものである。
 施しが善いことである、ということは誰しもが認めるだろう。施しを行うことで、その人は徳を積むことができる。それは、徳を実践する訓練を行うようなものである。はじめは形だけの行いだったものが、何度も繰り返すうちに自然に行えるようになり、しだいにその行為が持つ意味も感じ取れるようになる。そのようにして、徳が身につくのである。
 仏教では、乞食という実践が広く行われている。それは、他人に施しを求める行為である。そこにはどんな意味があるだろうか。

 ここで、徳は訓練によって身に付けるものである、ということを思い出してもらいたい。施しという徳を身に付けるためには、それを実践する場が必要になる。乞食行者の目的は、自らが徳を積むと共に、他人に徳を積む機会を与えることである。それが、彼らが時に福田と呼ばれる理由である。
 乞食という行いは、それ自体が一種の施し、つまり徳の施しである。乞食行者の仕事は、人の心を耕し、徳を育てることである。
 また、施しを受けることができるためには、それに値する人間でなければならない。そうであればこそ、それ以上の徳を、施者に与えることができるのである。

 徳が実在することを信じている人ならば、彼らの行いをこっけいだと言うことはできないだろう。徳が人間の価値を決めている。しかし、徳の本質は、人に徳を与えることができる、という点にある。それゆえに、徳を惜しんではならない。徳を独り占めにすることは、恥ずべき行為である。

9.12

 現在、世界中で無差別テロ事件が頻発している。このようなテロは、どうして無くならないのだろうか。
 ふつうテロリストには、民衆に伝えたいメッセージがあるはずである。彼らは政治に問題があることを伝えるために、テロ行為に訴えるのではないだろうか。しかるに、現在のテロリズムが過去のそれと大きく異なる点は、テロリストが活動する地域と、彼らがメッセージを送りたいと考えている人々のいる地域とが、かけ離れていることにある。
 彼らはイラクでテロを起こすことで、日本人にメッセージを送り、エジプトでテロを起こすことで、アメリカ人にメッセージを送ろうとしている。しかし我々日本人にとっては、それは外国で起きる問題でしかない。彼らのメッセージには、受け取り手がいないのである。
 いま必要とされていることは、メッセージの受け手を用意することではないだろうか。私は、世界政府が必要とされているのだと思う。経済はすでにグローバル化されているが、政治はまだグローバル化されていない。その歪みが現われているのだろう。これを解消するためには、政治のグローバル化が必要である。

 現在の国際社会には秩序が存在しない。そこに秩序をもたらすためには、法が必要である。それは、国際社会に参加するあらゆる個人、あらゆる政治主体が、例外なく従わねばならない普遍的な法である。
 全ての主体が、自発的にその法に従うようにならねばならない。なぜなら、個人の幸福は、社会の秩序なしにはありえないからである。一人一人が理性によって、自分の幸福を実現するための手段を考え、その上で自発的に法に従わねばならない。法に従わない限り、社会の秩序は実現せず、従って自分自身の幸福もありえないのだ、ということを納得しなければならない。
 我々はそのような法を探し出し、国際社会に政治的な秩序を確立しなければならない。これは夢物語ではなく、いま、現実に必要とされていることである。

10 因果律と幸福

10.1

 功利主義によって、合理的な道徳原理が提示されうる、という意見がある。これについて考えてみよう。功利主義者は、最大多数の最大幸福という原理によって、我々が従うべき社会規範が決定される、と主張する。彼らの問題意識は、個人の幸福と道徳的義務を調和させる、という点にあるのだろう。
 私は、功利主義にはいくつかの問題があると考えている。それは基本的に、彼らが理想と現実を取り違えている、という点にある。最大多数の最大幸福という原理は、目的として用いることはできるが、手段として用いることはできないのである。

 どういうことだろうか。例を挙げて説明しよう。
 たとえば、ある国の国民全員に、アンケート用紙を配るとしよう。一日の終わりに、自分の幸福度を 0 から 10 までの数値で記入してもらい、翌日それを集計し、幸福の総量を計算するとしよう。そうして計算された幸福の総量を、f という文字で表すことにしよう。そして、これを毎日行うとしよう。
 さて、ある日――X 日――に、f が最大値をとったとし、その値を fX と表そう。すると、X 日以降は f の値は下がり始め、二度と fX を越えることはないだろう。というのも、f の値が fX を越えてしまったら、fX は最大値ではないことになってしまうから。それゆえ、幸福の総量 f は、永遠に一定値 fX 以下のままである。
 最大多数の最大幸福が実現された社会とは、このような社会であろう。これが本当に、我々が望む社会の姿だろうか。

 また、次のような場合も考えられる。f が単純に個々人の幸福度の総量であるならば、社会の構成人口が増えるたびに、f の取りうる値の範囲も広がってゆくだろう。人口の最大値が存在しないならば、f の範囲にも限りはないことになる。このとき、一般的に言って、f は最大値を持たないだろう。
 一方で我々は、我々の社会の人口の上限を決定することはできないのだから、f はそもそも最大値を持たないことになるだろう。

 まとめると、功利主義の問題点は次のようになる。
 一つ、最大多数の最大幸福の状態を、どのように定義するのか。それは本当に定義できるのか。
 二つ、それが定義できたとして、どのようにして、ある状態が最大幸福の状態である、と判断するのか。
 三つ、そもそも、その状態を目指すことは本当に正しいのか。

 これらの問題が解決されない限り、私は功利主義を支持しない。しかしながら、自分の人生に不満を抱いているソクラテスなど、一体誰に想像できるだろうか。

10.2

 C・S・パースのカテゴリー論に従えば、快楽は第二性であり、幸福は第三性であると言えるだろう。幸福とは、快楽が指示するもの、つまり快楽の原因を探求しようとする、我々の傾向である。幸福は、快楽とは全く異なるものである。

 ここで少しの間、アメリカの記号学者パースについて語ることを許してほしい。彼の生き方は、本当に偉大であった。
 パースは、人間は記号であると言った。したがって、我々が彼について考えるときには、彼自身について考えてはならない。我々はむしろ、彼を一つの記号として、彼が指し示しているものを見ようとしなければならない。
 たとえば、私が月を指さしたとき、あなたが私の指先を見つめたとしよう。この場合、あなたには私の意図が全く伝わっていない。あなたは私ではなく、私が指し示すものをこそ、見なければならないのである。

 パースは一個の記号として生きた。それは崇高な生き方であった。だからこそ、彼をいくら見つめても、彼のことは何も分からないのである。

10.3

 もしも現実の中に、現実を変える力があるならば、その力によって現実自身が動かされ、すでに現実ではなくなってしまっているだろう。
 一方で、現実を変えるためには、現実の外から力を加えなければならないのだとすれば、理想だけが、現実を変える力を持つと言えるだろう。

10.4

 我々は、神を信じるべきだろうか。信じるに値する神とは、どのようなものだろうか。
 おそらく、我々に信じることができるのは、道徳的な神だけではないだろうか。我々が信じ続けることができるためには、神は道徳的でなければならない。

 しかし、神でさえも道徳に逆らえないのだとすれば、道徳が神よりも尊いということは明らかである。さらに言えば、神は不可知かもしれないが、道徳は可知的である。神は何も言わないが、道徳は我々を常に正しく導く。
 神を信じることと道徳を信じることの間に、どんな違いがあるのか。神の愛とは、道徳のことではないのか。

10.5

 神は、善い行いに対しては善い報いを、悪い行いに対しては悪い報いを保証した。これが因果律でなくて何であるのか。神が保証したのは、因果律以外の何物でもない。

 もしも因果律が存在しないならば、なぜマホメットが必要なのか。なぜ神は、マホメットに啓示を下したのか。もしも因果律が存在しないならば、マホメットの言葉と、あなた自身の神の認識との間に、どんな関係があるのか。
 事実は、マホメットの言葉を原因として、あなたの心に神の認識が生じたのではないか。もしも因果律がなかったならば、あなたは神を知るために、マホメットを必要としなかったであろう。

 もしもあなたが因果律を否定しようとするならば、あらゆる種類の困難があなたに襲い掛かるであろう。もしも因果律を肯定するならば、何の困難も生じないだろう。

10.6

 もしも因果律が存在しないならば、何故あなたは食事を摂るのか。あなたが毎日摂る食事と、あなたの健康の間に何の因果関係もないならば、あなたは食事を摂る必要がないであろう。そして、一度も食事を摂らないまま、いつまでも生き続けるであろう。
 あるいは、あなたはこう言うかもしれない。食事を摂る者には、神がその分だけ生命を与え、食事を摂らない者からは、生命を奪い取るのだ、と。
 そうかもしれない。では、なぜあなたは石を食べないのか。鉄を食べないのか。なぜ神は、石を食べる者に生命を与えないのか。あなたはそれぞれの場合について、いちいち異なった規則を設けなければならなくなるだろう。

 もちろん、そのような規則の体系が無矛盾であり、合理的であるということはありうるだろう。しかし、それは同時に煩瑣で、現実からかけ離れたものになるだろう。
 そもそも、そのような規則の存在をあなたに知らせたのは何なのか。あなたがその規則を思い付いたのは、あなたがそのことを疑問に思う前か後か。なぜあなたは、そのことを疑問に思う前に、その考えを思いつかなかったのか。
 事実は、あなたの疑問と推論を原因として、そのような答えが生じたのであろう。因果律を否定する想念にも、必ずその原因があるはずである。

 毎日食事を摂れば、あなたの健康は維持される。しかし、食事を摂らなければ、あなたは不健康になるだろう。このとき、食事が原因となって、あなたの健康が維持されている、ということは明らかである。因果関係という言葉は、これ以外の何物をも意味しない。
 もしもあなたが因果律の存在に疑いを持つのであれば、二、三日食事を摂らずにいてみてほしい。あなたはたちまち、因果律の存在を実感するだろう。

 もしも A があるならば、B はある。
 もしも A がないならば、B はない。
 もしも A が生じるならば、B は生じる。
 もしも A が生じないならば、B は生じない。

 これが因果律である。

10.7

 因果律の存在には、たしかに必然性がないように見えるかもしれない。因果律の存在を認めなくても、様々な物事を合理的に説明することは不可能ではないだろう。
 しかし、我々の周りの事実は、圧倒的に因果律を主張しているのである。もしも因果律が存在しなかったとしたら、あなたは日常生活を送ることもできないだろう。

 我々が因果律を認めることをためらうのは、精神の自由を否定したくないからである。しかし、今、ペンを持つ私の指を動かしているのは何なのか。それが筋肉の収縮でなくて、他の何であろうか。喉が渇いたときに、なぜ私は水を飲むのか。それが体調を維持するためでなくて、他の何のためなのか。
 もしも因果律を認めないならば、我々のあらゆる行為が、無意味で、説明不可能なものとなるであろう。因果律の否定以上に不合理な思想はない。そして実際には、因果律を否定することにも必然性はないのである。

10.8

 5 たす 6 はいくつだろうか。

 こう聞かれると、あなたの心に 11 という数字が浮かび上がるだろう。質問をされる前には、あなたの心の中には 11 という数字は存在しなかった。ゆえに、11 という数字は、5 たす 6 という質問を原因として生じた、と言えるだろう。
 心理現象に関しても、因果律は厳密に成り立っていなければならない。そうでなければ、あなたの心の状態には、何の秩序も無くなってしまうだろう。
 ある意味でフロイトの理論は、このことを説明するためのものだった。しかし彼の理論には、因果律からの例外が認められている。我々は、フロイトの理論から意識を消去しなければならない。心理学は、完全に無意識の理論であるべきだろう。

10.9

 自我が存在するという仮定は、明らかに科学の発展を阻害している。それは証明不可能で恣意的な仮定であり、人間精神に対する科学的なアプローチをほとんど不可能なものにしている。
 一方で、自我が存在しないという仮定を採用しても、科学的研究に際して何の不都合も生じないことは明らかである。おそらくその仮定を拒むのは、宗教的理由から、魂の存在を信じている者だけであろう。

 自我を否定することは、魂の不死と救済の可能性を否定することに等しい。しかし、それ以外には何のデメリットもないのである。
 あるいは本当の問題は、そのことによって、魂の堕落さえもが否定されてしまうことなのかもしれない。ある種の人々は、自分の魂を汚すことに喜びを感じているようであるから。

10.10

 我々が、ある事柄を悪しきものであると知るのは、それがもたらす苦痛によってである。同様に、我々は快楽によって善を知る。
 快楽は善そのものではないが、快楽によらずに善を知ることはできない。それが快楽をもたらすということは、それが善いものであるかもしれない、ということを我々に知らせる。
 もしも全き善というものがあれば、それは快楽にほかならないだろう。しかしそのことは、あらゆる快楽が善であることを意味しない。

 涅槃とは、善であり、真理であり、完全な快楽であり、あらゆる苦痛の欠如である。
 仏教徒の信仰はひとえに、涅槃を信じることにある。涅槃が現実に存在するということ、それが人間の一つの状態であり、活動であるということを信じることである。
 仏はそこに到る道を説いた。我々は実践しなければならない。

10.11

 瞑想とは何だろうか。
 私が足を組み、目を閉じたとき、そこにあるのは激流である。我々の心は、あらゆる方向へ絶えず引きずりまわされている。
 それとも、目を閉じたとき、あなたの心は無になるのだろうか。

 とんでもない!
 過去・現在・未来のあらゆる対象が、我々の前を次々に通り過ぎてゆくのである。好ましい記憶、嫌な記憶、満足、失望、後悔、現在の関心の対象、今為すべきこと、身体的欲求、足の痛み、頬のかゆみ、明日の予定、将来の想像、期待、不安、ありとあらゆることに我々の心は引っ張りまわされ、本当に休まるということを知らない。
 あなた自身の心を自由にコントロールする力が、あなたにあると言うのなら、静かな場所で座り、目を閉じ、これらの対象を消し去ろうとしてみてほしい。不可能であろう。

 あなたの心は、どんなときでも、あなたの自由にはならない。あなたの心の主人は、これら過去・現在・未来の心の対象であって、あなたではない。そして影が形に従うように、あなたの身体は、あなたの心に従うのである。
 どうしてそれで、過ちを犯さずに済むだろうか。
 どうしてそれで、災難に遭わずに済むだろうか。
 あなたが、あなた自身の心の手綱を握っていないこと。それが、あらゆる苦しみの原因である。

 では、どうすれば我々の心を、これらの束縛から解放することができるのだろうか。どうすればこの激流に流されずに、これを渡り切ることができるのか。
 原因に従って結果があること、それを理解することによってである。仏陀は四種の真理を説いた。
 まず、自分自身に生じる苦しみを、ごまかさずに認識すること。次に、その苦しみの原因を知ること。そして、原因を滅ぼした時に、苦しみそのものが消滅するのだ、ということをはっきりと認識すること。最後に、苦しみを滅ぼす方法が必ずあるのだ、という確信を持つこと。これが四種の真理である。

 我々の身に起こる一つ一つの事柄に関して、この真理を観察し、苦痛をもたらす原因を取り除き、よい結果をもたらす原因を増長させ、そのように注意深く観察を続けながら、すみやかにこの大河を渡り切らねばならない。
 途中で振り返ったり、立ち止まったりしてはならない。さもないと、たちまちのうちに激流に押し流されてしまうだろう。四種の真理の観察を片時も怠ってはならない。これが仏陀の教えである。

 疑いたい者は疑えばよい。しかし、仏法を批判することは無益である。
 燃えさかる炎に触れた者の手が焼けただれるように、ちょうどそのように、仏法を非難する者は、自らの身体が知恵の炎によって焼き尽くされることを知るだろう。彼は、自らの行いによって、自らを焼くのである。

10.12

 現代社会の思想的状況は、暗黒時代と言ってもよい。
 ある者は原子の存在を信じ切っており、ある者は理性や意識の存在に疑いを持たない。ひとびとはあらゆる形而上学的偏見に染まり、それが自分の思想や信念を歪ませていることに気付いていない。ひとびとはますます、他人の言葉に耳を傾けなくなっている。
 おそらく我々には、この状況を打開することはできないだろう。そして再び、何らかの形で破局が訪れることになるのだろうか。
 いや、そうはならないだろう。というのも、破局はすでに訪れているからである。

 昔の戦争では、人々は武器によって他人の身体を破壊していた。
 現代の戦争では、人々はお金によって他人の心を破壊している。

 この戦争はすでに世界中に行き渡っているが、誰もそれが戦争であるとは意識していない。
 人間の精神には測り知れない価値があるという。一体それはどこから来たのか。その価値は何に由来するのか。
 我々は、これらのことを学び直さねばならない。学ぶことの中にこそ、精神の価値があるのだから。

10.13

 私は、原子、神、自由意志を信じない。
 私は、因果律を無条件に受け入れる。
 原因による生起というめでたい真理を明らかにされた仏を、諸々の説法者の中で最も勝れた者として、礼し奉る。

(終)

ダウンロード

精神の本質.pdf

<参考>
中国語について
地球温暖化について
タグ:記号論

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