新型コロナ対策を振り返る

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政治は、国民の福祉を向上させるためにある。しかし、国民の要求に答えることが、必ずしも国民の利益になるとは限らない。

適切なたとえではないかもしれないが、犬は水浴びを嫌がる。しかし、健康を維持させるためには、犬が嫌がっていても、水浴びをさせたほうがよい。人間もこれと同じで、本人の望むことが、必ずしもその人の利益になるとは限らない。

政治家の仕事は、社会全体について思いを巡らし、長期的な展望を持つことである。ひとり一人の国民は、自分の生活や仕事で忙しいので、社会全体について考える余裕はあまりない。代わりに政治家がそういった問題について考え、判断を下すわけである。

したがって、長期的な目線で物事を考える政治家の判断は、国民の判断と必ずしも一致しないだろう。しかし、国民がそれを望まなくとも、それが国民にとって本当に必要なことなのであれば、政治家は断固としてその政策を実行しなければならない。

民主主義体制の下では、政治家は、できるだけ国民の望みをかなえようとする。そうすれば国民の人気が集まり、選挙で当選できるからである。それは確実に、政治家本人の利益になることである。しかし、それが国民の利益になるとは限らない。

今回のコロナ騒動の下で、国民は身の安全を求めた。政治家はその要求に答えたが、それは経済の崩壊を招いた。その結果、国民の利益が著しく損なわれたのだから、彼らは失敗したと言わざるを得ない。

本当ならば、たとえ国民から反発を受けても、できるだけ経済活動を維持できるような政策を行うべきであった。それによって犠牲者の数が増え、その決断を下した政治家の首が飛ぶことになったとしても、そうすべきであった。それが政治家の仕事だからである。

自分一個のことだけでなく、国民全体の利益を考えることが政治である。己の保身のために大衆に迎合し、国家を混乱に導くことは政治家の仕事ではない。

2

新型ウイルスのワクチンが開発されるのがいつになるのか、誰にも分からない。それを待つよりは、ウイルスの弱毒化を促すほうが確実だろう。

たとえば、酪農家が牛乳の収穫量を増やそうと思ったら、一番乳を出す牛に子供を作らせる。その子供の中からまた乳の出がいいものを選んで、子供を作らせる。その過程を何度も繰り返すことで、だんだん牛乳の収穫量は増加する。

牛と同じように、ウイルスにも個体差があると考えられる。だから、毒性の強いウイルスを間引いて、毒性の弱いウイルスを繁殖させれば、ウイルス全体の毒性は弱まってゆくはずである。

そして、重症の感染者の中には、毒性の強いウイルスがいる可能性が高い。ゆえに、重症の患者には、ウイルスごと死んでもらったほうがよい、ということになる。そうすれば毒性の強いウイルスが滅び、毒性の弱いものが生き残ることになるからである。

こういうことが実際に起きるかどうかは分からない。しかし、医者が重症の患者を救うことで、ウイルスの強毒化を促し、さらに患者の数を増やしている可能性も否定できないのではないか。

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