現代語訳大智度論 第一巻(下)

摩訶般若波羅蜜初品如是我聞一時釋論 第二

(初品の中の「如是我聞一時」を解説する)

かくごとわれけり、いち
(私はある時、このように聞いた)

「如是」

問 11

なぜ、経の初めに「かくごとく」と言うのか。

限りない仏の教えは、信じることを始まりとし、知恵を手段とする。「是の如く」とは、教えを信じることである。もし人の心に清らかな信仰があれば、仏の教えに従うことができるだろう。信じることがなければ、仏の教えに従うことは難しい。

教えを信じないものは、そうではない(不如是)と言い、教えを信じるものは、その通りである(如是)という。信仰のない人は、たとえば、なめされる前の牛の皮が、固くて曲げることができないようなものである。信仰のある人は、なめされた牛の皮が、どのように加工することもできるようなものである。

また次に、経の中で、「信仰は手である」と説かれている。人は手があるので、宝の山に入れば自由に宝を取ることができる。 しかし手がなければ、何も取ることができない。信仰のある人は、手のある人と同じで、仏の教えという宝の山に入って、煩悩のない感官や、さとり、すぐれた瞑想などを自由に取ることができる。信仰のない人は、手がない人と同じである。手がなければ、宝の山に入っても何も得るところがない。そのように、教えを信じない人は、仏の教えという宝の山に入りながら、何も持ち帰ることができない。仏は言う、「もし人に信仰があれば、私の大いなる教えの海の中に入り、必ず修行者の目的を達成するだろう。頭を剃り、袈裟を着たとしても、信仰が無ければ私の教えの海に入ることはできない。枯れた木が花や実をつけないように、修行者の目的を達成することはできないだろう。頭を剃り、袈裟を着け、様々な経を読み、よく質問し、よく答えたとしても、仏の教えから得られるものは何もない」と。このような理由から、「是の如く」は、仏の教えの初めにある。それは信仰を意味する。

また次に、仏の教えは深遠であるが、仏はすべてを知っている。教えを信じる人はまだ仏になってはいないが、信仰の力によって、仏の教えに従うことができる。梵天王が、仏に初めて教えを説くことを請うたとき、

『この世界には、以前から多くの不浄の教えがはびこっている。願わくは甘露の門を開き、清浄の教えを説きたまえ』

と語った。仏は、

『私の教えはとても理解しがたい。教えを聞いた人が、すでに欲望を克服していたとしても、三界に愛着する心があれば、やはり理解できないだろう』

と答えた。梵天王は言った、

「大徳よ、世の人々には知恵の深浅に差がある。善良で柔軟、誠実な者は、理解力が高く、悟りを開くことができるかもしれない。このような人があなたの教えを聞かなければ、苦しみの多い生き方をすることになるだろう。たとえば水中の蓮華が、芽を出し、成長し、まだ水の中にあるときに、太陽の光が得られなければ、花を開かせることができないようなものだ。仏よ、慈悲と憐愍の心をもって、人々のために法を説け」。

仏は過去、現在、未来の三世の諸々の仏の教えを思い出し、「彼らは皆、人々のために教えを説いた。わたしもそうしよう」と考えた。そして、梵天王などの神々の願いを聞き入れ、教えを説いた。そのとき世尊が言うには、

『私は今、甘露の門を開く。信じる者があれば歓喜を得るだろう。人びとの中で教えを説く、他を悩まさないために』

仏はこの句の中で、をする人は歓喜を得るとは説かなかった。また、もんかいにんにくしょうじんぜんじょう、知恵を行う人が歓喜を得るとは説かなかった。ただ教えを信じる人のことだけを説いた。仏の心はこのようである。仏が説く教えは、最も意味深く、微妙で、限りなく、数えることもできず、考えが及ばず、動かず、何にも依存せず、執着せず、得るのもがない。一切智人でなければ理解できないために、仏の教えの中では、信じることが最初に説かれているのである。信じることができれば仏の教えに従うことができる。布施、持戒、禅定、知恵などは、仏の教えに親しむためのものではない。次のような句がある、

『世間の人は心を動かし、幸福という結果を喜ぶ。しかし、幸福の原因を喜ばない。欲望の対象を求め、欲望の消滅を求めない。

私の教えより先に誤った教えを聞き、心がそれに執着して、深く入り込んでいる。私のこの意味深い教えを、信じることなしにどうして理解できようか』

デーヴァダッタの弟子のコーカーリカが良い例である。教えを信じないせいで地獄に落ちてしまった。彼は仏の教えを信じず、自らの知恵によって悟りを求めたが、得られなかった。なぜかといえば、仏の教えが、彼の知恵の及ばないほど深遠であったから。梵天王はコーカーリカを諭して言った、

『量り知れない仏の教えを量ろうとしても、どのような知恵者にも量ることはできない。量り知れない教えを量ろうとする者は、自らを滅ぼすだろう』

また次に、「是の如く」とは、もし人の心が善良で、素直に信じることができるならば、仏の教えを聞くことができる、ということである。このような性質がなければ、理解することはできないだろう。次の句のように、

『夢中になって教えを聴くことは、渇いたものが水を飲むようである。一心に語義の中に入り、躍り上がって教えを聴き、心は悲嘆し喜悦する。このような人のために法を説くのである』

また次に、「是の如く」の意味は、仏の教えの初めにある。現世の利益や来世の利益、涅槃の利益など、様々の利益の根本は、信仰である。

また次に、すべての外道の出家は次のように考えている、「私の教えは微妙で、最も清らかである」と。このような人は自分が実践する教えを称賛し、他人の教えを貶める。このために、現世では互いに争いを起こし、来世では地獄に落ち、様々な限りない苦しみを受ける。

『自らの教えに執着するから、他人の教えを貶める。このような人は、たとえ戒律を守っていたとしても、地獄の苦しみを免れない』

仏は、すべての愛着を捨て、すべての偏見を捨て、すべての驕りを捨て、「わたしが、わたしが」という態度を捨て、すべてにこだわらないことを教えている。『はつ経』では次のように説いている、「あなたがたが筏の喩えを理解したなら、正しい教えでも捨てるべき時には捨てねばならない、ということが分かるだろう。間違った教えならば尚更である」と。仏は般若波羅蜜において、思いを凝らすこともなく、何かに依存することもない、という態度を自ら示している。どうして他の教えに執着してよいだろうか。このような理由で、教えの初めに「是の如く」と言う。仏の考えがこのようであるから、その弟子は、愛さず、着さず、友を持たず、ただ苦しみを離れ、解脱することを求め、どのようなことについても議論をしない。

経』(『衆徳経』)には次のように説かれている。マーガンディヤは仏を非難して言った、

『確定した諸事象の中で、自由に様々な思いが生じる。自分の中と外に生じるすべての事象を捨て去ってしまったら、そこでどんな道が得られるというのか』

仏は答える、

『見るのでもなく、聞くのでもなく、知覚するのでもなく、戒律を守るのでもなく、見ないのでもなく、聞かないのでもなく、知覚しないのでもなく、戒律を守らないのでもない。

このような考えはすべて捨てて、自我と自分のものを捨て、対象の認識を捨てる。そうして道を得ることができる』

マーガンディヤは問う、

『もし、見るのでもなく、聞くのでもなく、知覚するのでもなく、戒律を守るのでもなく、見ないのでもなく、聞かないのでもなく、知覚しないのでもなく、戒律を守らないのでもないとしよう。

私の心がそのようであれば、口のきけない人の道を得たのだといえよう』

仏は答える、

『あなたは誤った考えに陥っている。その愚かさを私はよく知っている。あなたが妄想にとらわれるのを止めれば、自分から沈黙するだろう』

また次に、私の考えが真実であり、他は誤りである、私の考えが最も優れていて、他は間違いである、という考えが争いのもとである。「是の如く」は、人に争わないための教えを説く。他の人の考えを聞いても、その人に落ち度があるわけではない。このような理由で、様々な経の初めに、「是の如く」と言うのである。以上で簡略に、「是の如く」の意味を説き終わった。

「我」

 次に「我」を説明しよう。

問 12

仏の教えには、すべての事象は空であり、すべてのものに自我はない、と説かれている。それなのに、どうして経の初めに「是の如く我聞けり」と言うのか。

仏弟子は無我を理解しているが、世間のしきたりにならって、「我」と言っているだけだ。自我が本当に存在しているとは考えていない。例えば、金貨で銅貨を買う行為を、笑う人がいないのと同じである。それは、売買の法がそうなっているから。我と言うのもそれと同じで、無我の教えの中で、あえて我と言うのである。世俗の法に従っているからといって、非難してはならない。『天問経』に次の偈がある、

『阿羅漢、修行者は、煩悩を永遠に滅ぼしている。最後の身体において、我があると言うことができるだろうか』

仏は答える、

『阿羅漢、修行者は、煩悩を永遠に滅ぼしている。最後の身体において、我があると言うことができる』

世界悉檀のなかで我と説くのであって、第一義悉檀のなかで説くわけではない。つまり、第一義悉檀では、あらゆるものが空、無我であるが、世界悉檀のなかでは、我と言っても過失ではない。

また次に、世界悉檀の言葉には三つの根本がある。一つ目は邪、二つ目は慢、三つ目は名字である。この中の二つは不浄であり、一つは清浄である。凡人には三種の言葉がある、邪、慢、名字である。見道(初めて真理を会得した修行者の位)の修行者には二種類の言葉がある、慢、名字である。聖人には一種類の言葉がある、名字である。心が真理から離れてはいないとしても、世間のしきたりにしたがって、同じ言葉を使う。世界から誤った考えを除くために、世間に従って争わない道を選ぶ。このようにして、二種類の不浄の言葉の原因を除き、世間に従って一種類の言葉を用いる。仏弟子が世間に従って、我ありと説いても過失ではない。

また次に、もし、無我という特徴にこだわって、「これが真実であり、他は誤りである」と言う人がいたとしよう。この人は次のように非難するだろう、「あなたはすべてのものが無我であると説くのに、どうして「是の如く我聞けり」と言うのか」と。いま、仏弟子は、あらゆるものが空にして得るところがないと言うが、このことに執着しているわけではない。また、万物の本性に執着しているのでもない。まして、無我に執着していないことは言うまでもない。したがって、「なぜ我と言うのか」と非難すべきではない。『中論』は次のように説く、

『もし空ならざることがあれば、空なることもあるだろう。空ならざることすら得られないのに、どうして空を得ることができるだろうか。

凡人は空ならざることを見、また空を見る。見ることと見ないことの両者を見ない。これを実に涅槃と言い、非二安穏の門と言う。

諸々の邪見を退け、仏が実践すること、これを無我の法と言う』

以上で簡単に「我」を説き終わる。

「聞」

次に、「聞く」について説明する。

問 13

「聞く」とはどういうことか。耳の神経が声を聞くのか。聴覚の認識作用が聞くのか。意識作用が聞くのか。もし耳の神経によって聞くならば、耳の神経には知覚作用がないから、聞くことはできない。もし聴覚の認識作用によって聞くならば、それは一瞬の間しか存在しないので、言葉を分別することはできない。もし意識によって聞くならば、意識には聞く能力はない。なぜ意識に聞く能力がないかと言えば、まず、五感の認識作用が、それぞれ、色、音、香り、味、感触を認識し、そのあとで、意識がそれぞれの認識作用の結果を認識する。したがって、意識が認識するものは現在の五感の対象ではなく、過去の対象でしかない。もし、意識が直に、現在の五感の対象を知ることができるとすれば、盲者や聾者も、色や音を認識できることになるだろう。なぜなら、彼らの意識は正常に働いているから。

耳の神経がそれだけで声を聞けるわけではない。聴覚認識や意識が、それだけで声を聞けるわけではない。多くの原因が組み合わさることで、声を聞くことができるのだ。一つの作用だけで声を聞くことはできない。なぜか。耳の神経は知覚がないために、声を聞くことができない。認識作用は、物質的な根拠を持たず、それゆえ対象を持たず、存在する場所を持たないため、声を聞くことはできない。声そのものもまた、知覚作用を持たず、肉を持たないので、声を聞くことはできない。むしろ、声が発されたときに、耳が機能し、声が聞こえるところにいれば、心に聞くことを欲する動きが生じ、肉体と意欲が協力して働くために、聴覚の認識作用が生じる。聴覚の認識に伴って意識が生じ、言葉を分別し、様々な原因によって、声を聞くことを得るのである。このような事情であるから、あなたの非難は正当ではない。

誰が声を聞くのか。仏の教えの中では、一度として、何かを行うことができ、見ることができ、知ることができる主体があるとは言わない。偈にあるように、

『行いがあり、果報があるが、行う者も、果報を受ける者もいない。これが最も意味深い教えであり、仏だけが知ることができる。

空ではあるが断絶することはなく、継続しても恒常ではない。悪行も善行も失われない。これが仏の教えである』

以上で簡単に「聞く」についての説明を終わる。

「一」

次に、「一」について説き明かす。

問 14

仏の教えの中では、数が実在するとは説かない。認識作用にも、知覚器官にも、認識の対象にも含まれないからである。なぜ「一時」と言うのか。

世俗の習慣にならって「一時」と言っているだけなので、過失はない。たとえば、絵や、泥、木によって神の像を作って祈りを捧げても、心の中で神に祈っていれば問題はない。「一時」もこれと同じである。真実には「一時」は存在しないが、世俗にならって言うだけなので、問題ない。

問 15

「一時」が無いとは言えないはずだ。仏は自ら言っている、「一人が出家すれば、多くの人が幸福を得る」と。この人はだれか。仏世尊である。また、偈に説くには、

『私の修行には師匠はいなかった。志は「一」つで、同志はいなかった。「一」つの行いによって仏となり、自然に聖なる道に通じた』

このように、仏は色々なところで「一」を説いている。「一」は存在するはずだ。

また次に、「一」がものと結合しているために、そのものを一つと言うのだ。もし「一」がないとすれば、どうして、一つのものがあるとき、二でもなく三でもなく、一つと言うのか。どうして、二つのものがあるとき、一でもなく三でもなく、二つと言うのか。どうして、三つのものがあるとき、二でもなく一でもなく、三つと言うのか。もし、実際には数がないのだとしたら、一つのものに二つの心が生じてもよいし、二つのものに一つの心が生じてもよいだろう。三四五六も同じである。以上のことから、一つのもののなかに「一」が存在することが確認できる。

「一」とものが同じだとしても、「一」とものが異なるとしても、どちらにしても過失がある。

問 16

同じだとして、どんな過失があるのか。

一つの瓶は一つのものであって、「一」と瓶という別のものが集まっているわけではないとしよう。そうだとすれば、一つのものがあれば、どんなときでも、それは瓶であることになろう。そして、衣服などもみな、瓶と同一であることになろう。瓶と「一」が同一なのだから、「一」が属するものは、どんなものでも瓶であることになろう。瓶や衣服など、一つのものはすべて、区別出来なくなってしまう。

また次に、「一」は数である。だから、瓶も数ということになる。瓶に五つの要素があれば、「一」にも五つの要素があることになるだろう。瓶には物質的な実体があり、感覚の対象になる。だから、「一」にも物質的な実体があり、感覚の対象になると言える。もし、すべての「一」を瓶と呼ぶのでなければ、「一」が瓶と同一であるとは言えないだろう。「一」を「一」だとすれば瓶を含まないことになるし、「一」を瓶だとすれば「一」を含まないことになる。「一」と瓶とが異ならないために、「一」と言うところで「瓶」と言ってもいいし、「瓶」と言うところで「一」と言ってもいいことになる。これでは混乱してしまう。

問 17

同一だとした場合の過失はその通りだろう。異なるとした場合にはどんな過失があるのか。

もし、「一」と瓶とが異なるならば、瓶は「一」ではない。瓶と「一」とが異なるならば、「一」は瓶ではない。いま、一つの瓶があるとしよう。このとき、瓶が「一」つだと言うことはできるのに、どうして、「一」が瓶だと言ってはいけないのだろうか。この場合でも、瓶が「一」と異なるとは言えない。

問 18

「一」という数が、瓶と関連付けられているから、瓶を「一」つだと言うのであって、「一」という数が、瓶になるわけではない。

「一」は数の初めである。「一」は瓶とは異なっている。だから、瓶が「一」になるとは言えない。「一」が無ければ、多数も無いだろう。なぜなら、一が先にあって、それから他の数が続くのだから。

このように、「一」と瓶が異なるとしても、「一」があるとは言えない。同一であるとしても、別異であるとしても、「一」はあり得ない。あり得ないのに、どうしてそれがあるように言うのかといえば、ただ、仏弟子は世間の言い方に倣って、「一」と言うだけだ。実際には、数が存在するとは思わずに、言葉の上ではそう言うのだ。それゆえに、仏の教えの中で、「一人」、「一人の師匠」、「一時」と言うとしても、誤った考え方に陥っているわけではない。

以上で、簡略に「一」を説き終わる。

「時」

次に、「時」について説明しよう。

問 19

インドでは、「時」という言葉には二つの意味がある。一つ目は迦羅カーラであり、二つ目は三摩耶サマヤである。仏はどうして、迦羅と言わずに三摩耶と言うのか。

もし迦羅と言えば、疑いが生じるだろう。

問 20

簡単のために迦羅と言うべきだ。迦羅は二文字、三摩耶は三文字である。言葉は短いほうがいい。

邪見を除くために、三摩耶と言い、迦羅とは言わない。

問 21

ある人が言った、「天地全ての良いもの、悪いものは、みな時を原因とする」と。『時経』(インド古代哲学の一派、時論派の経典)には次のようにある、

『時が来て衆生は成熟する、時が至れば催促される。時は人を覚悟させる。これゆえ、時を原因とする。

世界は車輪のようである。時が移れば車輪は回る。人もまた車輪のようである。上ったり下ったり』

さらにある人は言う、「天地全ての良いもの、悪いものは、時が作ったものではなく、時はこれを変化させない。それらのものの直接の原因は時ではない。時は微細であり、見ることも知ることもできない。結果として花や果実が実ることから、時の存在を知るだけである。去年、今年、遠い過去、近い過去、遅い、速いなどの現象から、時の性質を知る。時を見ることはできないが、知ることはできる。結果があることから、原因があると結論できる理由は、時が存在するからである。時のあり方が変わることはないから、時は変化しない」と。

泥の玉が現在の時であり、土くれが過去の時であり、瓶が未来の時である。時が変化しないならば、過去の時が未来の時となることも無いだろう。あなたの経典によれば、時は一つのものである。だから、過去の時が未来の時になることはないし、現在の時になることもない。過去の時の中に未来の時があると考えるなら、誤りになるだろう。だから、未来の時もなく、現在の時もない。

問 22

あなたは、過去の土くれの時があることを認める。もし過去の時があれば、必ず未来の時もあるだろう。したがって、時は存在する。

あなたは私の主張を理解していない。未来の時は瓶、過去の時は土くれである。未来の時は過去の時にはならない。未来の時の中には、未来の時がある。どうしてそれを過去の時といえようか。それゆえ、過去の時も無い。

問 23

どうして時がないのか。時は必ずある。現在には現在の本質があり、過去には過去の本質があり、未来には未来の本質がある。

もし、過去・現在・未来の三世にそれぞれその本質があるとするなら、すべてが現在の時になってしまい、過去・未来の時は無くなる。もし、未来があるのに未来と呼ばなければ、現在と呼ぶべきだろう。それゆえ、これは正しくない。

問 24

過去の時と未来の時は、現在の中で行われるわけではない。過去の時は過去の中で行われ、未来の時は未来の中で行われる。それゆえ、それぞれの時にそれぞれの時がある。

もし過去が過ぎ去るならば、それは過去ではなくなる。もし過去が過ぎ去らないならば、それは過去とは言えない。過去の性質を捨てることになるから。未来についても同様である。それゆえ、時は存在しない。存在しない時が、どうして天地の良いもの、悪いものや、花や果実などの諸物を作り出せるだろうか。これらのような誤った考えを除くために、迦羅ではなく、三摩耶と言うのだ。あらゆる事象が生成・消滅するのを見て、仮に時と名付けるだけである。他に時はない。

方向、時間、離れる、合わさる、同じ、異なる、長い、短いなどの名前に、人の心は囚われ、それを実在とみなす。このような理由で、世界の名前や言葉の誤りを取り除く。

問 25

時がなければ、どうしてじき(定められた時間通りに食事をとること)を許し、非時食を禁ずるのか。

私はすでに、世界の名前のあり方について説明した。時があるというのは、真実ではない。あなたは非難するべきではない。また、律蔵の結戒の法は、世界悉檀の中の真実であり、第一義悉檀の真実ではない。自我が実際には存在しないために、また、多くの人が非難するために、仏の教えを守って永く伝えるために、弟子の礼儀作法を定めるために、仏世尊は戒律を定めた。この中に、どんな実在があり、どんな名前があり、何が相応じて生じ、何が相応じて生ぜず、何がそのとおりのそのものであり、何がそのとおりのそのものでないのか、を求めるべきではない。

問 26

もし、じきやくでなければ、どうして三摩耶と言って、迦羅と言わないのか。

これは律蔵で説くことであって、白衣びゃくえ(在家信者)は聞くことができない。外道がどうしてこれを聞き、邪見を生じることがあるだろうか。他の経は誰でも聞くことができる。それで、三摩耶を説いて、邪見を抱かないようにさせる。三摩耶は仮の名前であり、時も仮の名前である。また、仏の教えでは、三摩耶と言うことが多く、迦羅と言うことは少ない。少ないから非難すべきではない。

以上で「如是我聞一時」の五語について、それぞれの意味を簡単に説き終わった。(第一巻 終)

<底本>
SAT大正新脩大藏經テキストデータベース
『国訳大蔵経 論部 第一巻』国民文庫刊行会、大正八年

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