倭国と隋の外交政策

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 聖徳太子が隋の皇帝に送った国書に関しては、様々な議論があるようである。しかし、この問題は、中国と日本の二国だけの問題ではない。この時期の東アジア全域の国際関係に、目を向ける必要がある。

 南北朝から隋の時代にかけて、東南アジアを含むアジア諸国の間で、仏教的な形式をとった外交関係が顕著に見られる。つまり、仏教を奉じる中国の王朝と、同じく仏教に帰依する中国周辺地域の諸国家が、お互いが仏教徒であるという共通認識の下で、友好関係を深め合う、という現象が観察されるのである。
 これはおそらく、双方にとって有益なことであった。なぜならば、仏教という学問が、外交の基盤となる相互理解を助けてくれたからである。一般的に言って、お互いの共通点を見つけるということが、コミュニケーションを始めるためのきっかけとなる。共通の宗教を奉じているということが、その手段として機能したわけである。その具体例については、別の研究書に譲る。

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 隋の帝室は仏教を信仰していた。そのため日本の王家は、仏教的な形式を通して、隋の帝室と接触しようとしたわけである。これは、当時の国際環境においては、普通のことであったと思われる。
 聖徳太子が普通でなかったのは、隋の皇帝をやり込めたことである。彼は、隋の皇帝を菩薩天子と呼んだ。では、菩薩とは何か。
 菩薩とは修行者である。仏道を求めて修行する者を菩薩と呼ぶ。そして、修行者には必ず師匠がいる。つまり菩薩とは、仏陀のもとで修業に励む者のことである。

 したがって、太子が言わんとしたことは、次のようなことだったと考えられる。中国の天子も、日本の天子も、同じく仏陀を師匠としているのだから、その点では兄弟のようなものである、と。煬帝はただ無礼と言うのみで、これに言い返すことができなかった。
 ここには、隋という帝国の、外交関係における弱点が現われているように思う。そもそも、平等思想を特徴とする仏教は、中国的な華夷思想と相性が悪いのである。中国皇帝が仏教を奉じる限り、皇帝を超越する権威として、仏陀の存在を認めざるをえない。それは、ある意味で自己矛盾である。その矛盾を、太子は鋭く突いた。

 おそらく、隋の後に成立した唐の帝室は、その失敗をよく理解していたのだと思う。そのため、彼らは道教を国教と定め、仏教を以前ほど尊重しなくなった。権力の安定のためには、帝室から仏教を排除せざるをえなかったのである。
 しかし、民衆の間には、仏教への信仰が根強く残ることとなる。

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 また、聖徳太子の外交方針は、その後の日本外交の基本となったと考えられる。いまでは想像もできないが、明治時代の日本外交は非常に強気であった。

 外交は強気のほうがよい。外交の場では、相手に足元を見られたら終わりである。なので、向こうが何も言い返せなくなるほど、やり込めたほうがよい。そういう強気の外交が、明治の日本にはあった。つまり、日本は外交が上手かったのである。むしろ上手すぎたくらいで、そのせいで色々と恨みを買ってしまった。
 その反省からか、現在の日本外交は非常に弱気である。しかしながら、聖徳太子のような、相手の弱点を容赦なく抉る外交が、いま再び必要なのではないか。

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 後漢末から南北朝の時代にかけて、様々な仏典が漢訳され、仏教は中国人に受容されていった。その過程で、三論宗や浄土宗など多くの宗派が生み出された。その中で最も重要なものは、智顗によって始められた天台宗であった、と私は考えている。
 これは、はっきりと証拠立てて議論することは難しいことなのだが、中国において空という観念を初めて理解し、それを漢文によって自由自在に表現してみせた人物は、智顗であったと思う。

 天台宗の基礎にあるのは、中観派の学問である。智顗は龍樹の著作を綿密に研究し、空の論証を自分自身のものとした。たとえば同時代の三論宗は、中観派のテキストを研究する学派である。しかし、同宗派の吉蔵の著作は、中観派を研究の対象としているところがある。彼は、空とは何か、ということをテキストの分析によって明らかにしようとするが、自分の言葉で空について語ることは、まだできていない。
 これは、あるいは文学の問題なのかもしれない。私は、智顗は空を語っていると感じる。しかし、吉蔵は空に関して語っているだけである。この点で、私は中国仏教の頂点を智顗の中に見る。漢字によって表現される仏教は、智顗がこれを完成させ、智顗がこれを始めたのである。

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 そのように考えてゆくと、興味深いのは、隋の煬帝が、智顗によって菩薩戒を授けられていることである。隋という国家は、中国の仏教史を理解する上で、非常に重要な存在である。
 その時代は、中国の仏教化のピークであるとともに、隋の滅亡によって、仏教を用いて国を治めるという理想が否定されてしまった、という点で、中国における仏教受容が曲がり角に差し掛かった時代でもあった。隋の文帝が始めた、仏教に基づく国作りは画期的なものであった。それが上手く行っていれば、中国における仏教の地位は、今とは全く違うものになっていただろう。

 一方で、日本においては、奈良朝以来の政策によって、仏教による国作りは成功したように思われる。その理由は、中国では、仏教が伝搬してきた時点で、すでに儒教や道教などの高度な文化が育まれていた。しかし日本には、まだそこまで高度な文化が発生していなかった。そのために、仏教の受容が中国よりも深く進んだのだろう。
 つまり、隋による中国の仏教化は失敗したが、大和朝廷による日本の仏教化は成功したわけである。その意味で、この二つの国家は兄弟のようなものだったのかもしれない。

 ここに、中国と日本の歴史の分かれ目があったと考えるのは、穿ちすぎだろうか。日本と中国の決定的な違いは、その仏教化の程度にある、と私は考えている。

6

 皇帝権力を至上のものとする中華主義と、人間の平等を説く仏教の対決は、一見、前者の勝利によって終わったかにみえる。しかし、中華主義の持つ排他性は、常に他民族の不満を招き、歴史を通して批判され続けてきた。

 清朝の雍正帝による『大義覚迷録』は、その一例である。この書は、漢人の中華主義者である曾静と、満洲人の皇帝との間で行われた、問答の記録である。
 その中で雍正帝は、中国の領域に生まれた人間だけが文明的であり、中国の外に生まれた人間は全て野蛮人であるという中華主義が、いかに道理に合わないものであるか、ということを弁論によって明らかにしている。私には、雍正帝の意見は文句なく正しいものに思える。

 中華は拡大する。それは、かつて黄河流域の中原のみを意味していたが、やがて長江流域や山東半島、雲南にまで広がり、清朝の時代には、満洲や東トルキスタンをも含むようになった。
 だが、何が中華であるのか、ということも、同時に変化し続けている。大清皇帝が示した大中華という理想は、単なる中華主義ではなく、民族の平等に基づいた、新しい世界帝国を目指すものであった。そして、石原莞爾の提唱した「東亜連盟」という国家連合は、この大清国の理想を受け継ぐものであったと考えられる。

 中華はやがて、日本をも呑み込むだろう。だが、我々はただ呑まれはしない。我々はむしろ中華を乗り越え、人類の平等を実現する契機を、そこに見出す。日本を含む新しい中華は、これまでの中華を超えた、民族の平等と人類の平和を実現するための、極大国家となるだろう。
 世界平和はすぐそこまで来ている。それは必ず実現されねばならない。

 南無妙法蓮華経。

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